※ R15程度ですがいちゃいちゃしてます。





わんこ











 はばたき学園を卒業後、大学生になってわたしは嵐さんの部屋に招かれた。
「お邪魔しまーす」
「おう」
 一体大に進学した嵐さんは、大学の近くに一人暮らし用の部屋を借りた。初めてその部屋にお邪魔することになって、ついきょろきょろと視線をめぐらせてしまう。
 彼の新居は物も少なく、どちらかといえば殺風景に近い。衣装ケースや使い込まれたダンベル、柔道の賞状やトロフィーなんかは見覚えがある。変わったことといえば、背の低い真新しいベッド。わたしの部屋にあるベッドより大きく見えるけれど、恐らく見間違いではない。成人男性というよりアスリートサイズだ。
「あっ。ベッド買い替えたんだね」
「うん。新しくした」
 嵐さんは無造作にベッドに腰掛けながら、ホントはソファを置きたかったんだけど、と呟いた。
「この部屋にソファ置いたら、狭いね」
 あの時は一人暮らしになったら、なんて話をしていたけれど、実際に一人暮らしの部屋にソファを置くとなると、かなり窮屈そうだった。


 わたしは嵐さんの隣に座った。
「こうすれば隣に座れるよ」
 嵐さんは一瞬驚いた後、微笑み返して肩を抱いた。
「ほら、もっとこっち」
 調子に乗ってぎゅうっとくっつく。嵐さんの体温はわたしより少し高くて、触れるといつも安心するのだ。
 一体大で鍛えられた嵐さんは、高校の時よりも体が一回り大きくなったような気がする。わたしは誘惑に抗えずにしがみつき、ぺたりと体に触れる。おなかに触れると、しなやかな筋肉の感触が伝わってきた。
「くすぐってえ」
 そう言って嵐さんは身をよじらせた。いたずら心がむずむずと刺激されて、くすぐってみる。わたしだけが知っている嵐さんの弱点に手が伸びる。
 嵐さんは一瞬息を止め、含みのある顔でにやりと笑った。
「やったな?」
 お返しだ、という言葉とともにわたしの体が一瞬浮く。そしてぼふん、という音とともにベッドに沈められた。
「きゃー! あっはっは!」
 もちろんちゃんとした柔道技なんてものじゃなく、ただのおふざけ。加減しているので、全然痛くない。
 彼は添い寝をするようにごろりと横たわり、ぎゅっと抱きしめてきた。付き合い始めてから、嵐さんはこうやって抱きしめ気持ちをぶつけてくるようになった。時として苦しいくらいに……って、苦しくて息が詰まってくる。
「くっ、苦しいっ」
「あ、悪ぃ」
 ギブアップするみたいに肩を何回か叩くと、嵐さんの手が緩まった。
「はぁ……もうっ」
「悪かった。くっつきたいと思ってると、つい加減を忘れる」
 彼はすり寄るようにこつんと額をくっつけてきて、わたしはしょうがないなあ、と笑みを浮かべる。この力加減の悪さについてはもう一言言ってやりたい気持ちもあるのだけれど、しゅんとした顔を見ると、つい許してしまう。
「嵐さんって、わんこみたいだね」
 カレンさんはくまと称したけれど、わたしはわんこだと思う。体は大きいけれど、優しい瞳をしていて。そしていざという時は守ってくれる。全力で気持ちをぶつけてくる姿には圧倒されてしまうけれど、わたしを傷つけたりはしないのだ。
 だけど嵐さんは微妙な顔をしてため息をついた。
「おまえなあ……」
 褒めたつもりだったのに、嵐さんはそう受け取っていないようだった。
「うーん。かわいいのに……ダメ?」
「……まいっか。じゃあわんこな」
 彼の瞳がきらりと光った気がした。何かを企んでいるような、と思った時にはもう遅かった。嵐さんは大胆に、鼻をわたしの首筋にくっつけてきた。まるで食らいついてくるかのように。首筋に息がかかる。
「いい匂いがする」
「あっ……あははっ、くすぐったい!」
 わたしはもがきながら笑った。くすぐったいよ、と言いつつ押しのけようとするけれど、その体はびくともしない。
 嵐さんは耳元でぽつりと呟いた。気のせいだったかもしれない。けれどその時のわたしには、確かにこう聞こえたのだ。――うまそう、と。
 そして嵐さんは、わたしの首筋にかぷりと噛み付いた。加減されていて痛くはないけれど、歯の感触と生温かい粘膜の感触がぬるりと肌を伝う。
「ひゃっ」
 ぞわり、と体の中で何かが疼いた。
「食べられない! 食べられないよ!」
 けれど嵐さんは甘噛みを止めない。今度は生温かい感触とともに、ちゅう。と、卑猥な音がした。
「やっ……」
「うめぇ」
 変な声が出てしまう。とっても恥ずかしい。隠れていて見えないけれど、彼がどんな顔をしているかは想像がついた。
 いくらなんでも、これはまずい。まずい気がする。それぐらいはわたしにもわかる。
「ちょっと待って! 待とう! 不二山犬、待てっ」
 手で静止のポーズをすると、彼はぴたりと止まった。
「……がう」
 嵐さんはわたしのおふざけに乗ってくれた。よかった、伝わったみたい。敢えてふざけたノリをして、何とかこの雰囲気を振り払おうとした。
 嵐さんは上体をあげてすごすごと引き下がった。さっきまでの乱行はどこへやら、そこにいるのはいつもの嵐さんのように思えた。ほっとしたのもつかの間、彼はまるで大きな犬のように、そのまま伏せる。それもわたしの――胸の上で。違う、これは引き下がったとは言わない。それどころか悪化している。
 彼の重みがずっしりとのしかかる。そのまま何もしてこないので、抵抗するのも憚られた。こういうところがずるいのだ。これは決して――ヘンな意味じゃなくて、ただのスキンシップ。下心なくくっついてるだけ。すり寄ってくるわんこと同じ。そう思いこもうとする。
 シャツごしに温かい吐息が伝わってくる。
 体を横たえたまま頭だけを持ち上げ下の方を見ると、彼はそのままの姿勢で目だけをこちらに向けていた。そっと手を伸ばして頭をなでると、わんこみたいに目を細める。
「かわいいなぁ。ふふっ」
 こんなこと言ったらまた怒られるだろうけど、つい口にしてしまう。
 ふと、嵐さんは起き上がってわたしの足元の方であぐらをかいた。今までの温もりがなくなって、急に不安になる。上体を起こして手を伸ばしたけれど、彼のところまでは届かない。
 返ってきたのは予想以上に低く押し殺した声だった。
「……俺は犬じゃねえ」
 ちゃんと人間の男だ。そう嵐さんはつぶやいた。もちろんそんなことは承知のつもりだった。けれど、どこかでその事実から目をそむけていたのかもしれなかった。そうすれば、彼の欲望に気づかない振りをしたまま一緒にいられるから。
 そんなつもりじゃない、と色々な言い訳が頭に浮かび、そして口に出せずに沈んでいく。彼の自尊心を傷つけてしまったのは事実だからだ。
「ごめん」
 わたしは起き上がり、嵐さんと向き合う形で座りなおした。
「ごめんね」
 とても不安になってそっと手を伸ばす。振り払われやしないだろうか、という心配をよそに彼はわたしの手を受け入れた。ようやく「いーよ」と返ってきて、わたしはひどく安心する。
 嵐さんはわたしの頭に触れ、ぽんぽんと撫でた。
 ようやく許しを得ることができたようで、安心してぎゅっとしがみつく。やっぱりわたしはこの人のことが大好きなのだ。


「無理強いするつもりはねぇ」
「う、うん」
「ねーけど……したい」
 彼ははっきりと欲望を口にした。
 したい。
 その言葉を聞いた瞬間、体が熱くなってくるのがわかった。
 わたしだって、言葉の意味がわからないほど子供じゃない。したい、って……つまり、口じゃ説明できないようなことが頭をよぎっていく。具体的にどうするかは、少し、自信がないけれど。部活の合間に見た、嵐さんの裸体がちらりと思い出される。嵐さんは一体大に進学し、体もまた大きくなった。その体が目の前にある。今までは何も考えずに無遠慮にその体に触ることができた。けれどその体に今また触れてしまったら、今度はキスどころではすまないのだと思うと、頭の中がかっと熱くなった。体中がじっとりと汗ばんでくる。もう高校の頃とは違うのだ。
 靄がかかったような濃密な空間。なんだか息苦しくて、呼吸が荒くなってくる。
 ほんの少し、首を縦に動かしてしまえば、二人の間に引かれていた線を飛び越えてしまうことなど簡単にできるだろう。それを拒む障壁は――何もないような気がする。高校を卒業し、わたしも彼も大人になった。あとはわたしがうんと言うだけ。
 本当に嫌なら今すぐ断ればいいのに、それができないのは――つまりそういうことだ。わたしだって、心のどこかでこんなことになるのを望んでいた。すっかり手の内に囚われていることにわたしは気づかない。
 彼の瞳が光を帯びて、わたしが首を縦に振るのを待っている。好機をうかがう獣のような瞳で。呼吸を押し殺して。
 けれどそこにいるのは獣ではない。わたしが愛した、一人の男性なのだ。


 嵐さんの手がわたしの髪に触れ、頬に触れ、そして唇に触れた。
 決して嫌じゃない、というより心地よい。だが、そこから一歩を踏み出す勇気がわたしにはなかった。いつまでもこうしていられたらいいのに、という思いは、彼の執拗な愛撫によって打ち消されていく。体が熱くなってきて、なんだか妙な気分にさせられてくる。向かい合って座っていたはずの二人の距離はいつの間にか詰められていた。何かを言わなければいけない。けれど何を? 頭がうまく働かない。
 意を決して口を開きかける。だが実際に声になったのは「あの」の「あ」だけだ。それ以降の言葉は嵐さんが塞いでしまった。最強の武器――唇で。
「あ、らし、さんっ」
 もがいたけれど、そう簡単に離してはくれない。彼はわたしの口に食らいついたまま「時間切れ」と非情な宣告をした。
「ちょっと、待って……まだ、何も言ってないよ!」
 ようやく嵐さんは顔を離した。
「じゃあ今答えろ。……嫌か?」
「嫌、じゃないです」
 その問い方はいつもずるいと思いつつ、こう答えるしかない。ともかく、とうとう言わされてしまった。嵐さんは満足そうに「よし」とうなずくと、己の服の裾に手をかけ、あっさりと脱ぎ捨てた。鍛え上げられた肉体があらわになり、恥ずかしくて目をそらす。
「こら。こっち向け」
「ふ、ふぁい」
 その上こんな無茶振りまで要求されて、心臓が爆発しそうだった。
 とうとう彼はわたしのシャツに手をかけた。まさかこんなに早くこんなことになるなんて予想していなかったけれど、覚悟を決めるしかなかった。


 普段はのんびりした言動をしているから、つい失念してしまうけれど、嵐さんはこういうところがあるのだ。

 不二山犬は待てが苦手だ。

 いや、そうではなく。
 こんな好機を嵐さんが逃すはずがないのだ、ということに。





2017.01.12

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