皆勤賞











 夏の夕暮れ。まだまだ暑さが残っているとはいえ、お盆も過ぎると、日が落ちるのは早い。
 私は一人柔道場に残り、戸締りの確認をしていた。
「あっついなあ……」
 制服に着替えたばかりなのに、汗が噴き出てくる。
 と、そこへ身支度を整えた不二山くんが現れる。シャワーで汗を流し、柔道着から制服に着替えたこざっぱりした彼を見るのが、密かな楽しみの一つだった。髪から垂れる滴を、つい目で追ってしまう。
「お帰り」
「押忍。ただいま」
 彼はスケジュール表を片手に持ち、広げる。そしてある一点を指し示した。
「なあ。この八月の最終週んとこ、なんで休みになってんだ?」
 私はがっくりと肩を落とした。八月も半ばになってからそんな確認をしてきたことに、そして八月の最終週をわざわざ空けた意味について問われることに驚きを禁じ得ない。
「ええ〜……今更それ聞いちゃう……?」
「なんだよ。もったいぶってねーで言え」
 本当にわからないのだろうか。夏休みの終わりといえば、あれしかないのに。
「さて問題です。八月が終わったら?」
「九月」
「正解! 九月と言えば?」
「……俺の誕生日」
「そ、そうだね……。それもあるけど、夏休みが終わってすぐの行事といえば? さあ、何でしょうか!」
「……まあ、新学期だな」
 だんだん旗色が悪くなってくるのを察したのか、彼の口調が沈んでくる。
「そうなの、新学期なの! 新学期までにやらなきゃならない事、あるでしょ? あれあれ!」
「……ああ」
 今の今まで頭になかったような顔をして、彼はうめいた。
「そういえば宿題……やっべえ……」
「ほらね! やっぱり空けといてよかったでしょ!?」
 新名くんみたいな優等生はさておき、基本的には主将と似たような柔道第一のメンツが集まっている。部活で夏休みを過ごすのも、それはそれで有意義ではあるけれども。ちゃんと学業と両立できるスケジュールを組んだことはもっと感謝されてしかるべきだと私は思う。

 不二山くんはしばらく考えた後、ちらりとこちらを見た。
「……なあ」
「駄目っ。自分でやんなきゃ意味ないんだからね」
 おそらく「宿題写させて」が来ると踏んだ私は、いの一番に断った。最後まで聞いてしまうと、結局押し負けてしまうのが目に見えているからだ。
「まだ何も言ってねーけど」
 ふくれっ面の不二山くんは、その精悍な顔つきに似合わずとてもかわいい。つい情にほだされてしまいそうになる。せっかくやる気を出しているのだ、少しぐらいなら手助けしてもいいかもしれない。なんて考えるのは甘いだろうか。
「ごめんね。なあに?」
「……いや、やっぱいい」
 だいたいおまえが想像してた通りだ。と言われ、私は苦笑した。
「今年は小論文と数学のプリントと、あと英訳だけだから。今からちょっとずつ手を付けて追い込めば間に合うよ。がんばろ?」
 という私の言葉は彼に響いたかどうか。「ああ」と気のない返事が返ってくるのみだった。

 帰り道。夕暮れの中を二人連れ立って歩く。
 不二山くんは先ほどから一言もしゃべらず、難しい顔をしていた。気まずい。やはり機嫌を損ねてしまったのだろう。でも、謝るのも違う気がする。
 ふいに不二山くんがつぶやいた。
「……なんか、もったいねえな」
「何が?」
「皆勤賞。あとちょっとで達成だったのに」
 私はほっとした。どうやら怒っていたわけではないらしい。
「んー、でも宿題が終わったら自主練してもいいんだよ。部室は使ってもいいって」
「……それもあるけどさ」
 と不二山くんは言葉を濁す。こんな風に煮え切らない彼を見て、どうしたんだろうと私は首をひねる。
「せっかくここまで続いたんだから、最後まで続けなきゃもったいねえ。――で、だ。今度の日曜、公園でフリーマーケットがあるらしいな」
「……え?」
 それとこれと一体何の関係が――と言おうとして、ふと気づいた。
 そういえば、日曜日は部活を休みにしていたけれど、ずっと不二山くんとどこかに出かけていた。海水浴、花火、遊園地のナイトパレード。先日は完成したばかりの水中トンネルを眺めに行ったところだ。部活三昧以上に、不二山くん三昧の日々を過ごしていたことにようやく気が付き、顔が赤くなる。
「も、もしかして皆勤賞って、わたしのこと?」
「ん。行くか? フリーマーケット」
 不二山くんはいい笑顔でそう言った。
 皆勤賞。魅力的な響きだった。正直、誘惑に負けてしまいそうだ。だが、心を鬼にして断らなければならない。私にも、そしてこの様子だと不二山くんにも宿題がたんと残っているからだ。
「ええっと、行きたいのはやまやまなんだけど――」
「駄目か? ……何か予定でもあんの?」
 それを聞いて私はがっくりと肩を落とした。深くため息をつくしかない。
「宿題をするから部活休みにするって言ったばかりでしょ!」
「それは月曜以降のハナシだろ。そもそも日曜は部活じゃねえ」
「ええー……」
 不二山くんは頑として意思を曲げようとしない。なんかこの流れには覚えがあった。一度言い出したら聞かないのだ、この男は。
 私は口をつぐむしかない。デートのお誘いは嬉しいけれど、宿題を放ってまでというのも違う気がするし。けれど、これ以上強く言って、空気読めないとか、がり勉とか言われるのも嫌だし。こういう時に、私は口がうまくない。

 彼はがしがしと頭をかいた。
「わかった。宿題はやる。――それならいいか?」
「え、う、うん」
 私は目を見張った。勉強の事になると「眠い」とかいかにさぼるかしか考えてなかったようなあの不二山くんが。あの不二山くんが! すごい、私見直しちゃった、と言おうと思ったら。彼はとんでもない爆弾を落としていった。
「てことで、合宿だな! 来週は宿題合宿。俺んちでいいか?」
「……ん?」
 そして不二山くんはにやっと悪い顔で笑った。
「これで皆勤賞だ。それにわかんねーとこがあったら教えてもらえるだろ? 一石二鳥、ってやつだ」
 私は目を見開いた。なんだか嵌められたような気分だった。
「な、なんで……! いつの間にそんな話にっ」
「嫌か?」
 子犬のような表情でそう言われ、私は首を横に振る。
 嫌なわけがない。私だって一緒にいられればいいなぁと思っていたのだ。ただ、こんな形で実現するとは思わなかったし、結局宿題を自分でやるという部分はうやむやにされそうな気がするけれど。
「しょうがないなあ、もうっ」
 私は自分の感情を隠して仕方なく応じるふりをした。といっても、顔も赤いし、うまく誤魔化せたか自信はないけれど。
 不二山くんが「よかった」と笑うから、しょうがないか、という気になってしまうのだ。結局私は彼にとことん甘い。
「じゃ、よろしくな! マネージャー」
 手を差し出してきたから、私はありったけの力を込めて思いっきり握った。
 彼はそれに気づくと、「降参!」と言い、笑った。




2017.09.08

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