忠犬、あるいは猛獣











「嵐君ってわんこみたいだよね」
「は?」
「あのね、私を見つけたらダッシュしてくるじゃない? それが尻尾を振って嬉しそうにしてる忠犬みたいだって言ってたの」
「言ってたって誰が」
 美奈子は同級生の名前を出した。
「あいつか……」
 俺と美奈子は同じ一体大に進学した。彼女はスポーツ科学部に進学し、持ち前の明るさですぐに周囲と打ち解けていったけれど、特に彼女と親しくなったヤツは変なヤツだった。一体大には珍しいタイプのなよなよした細面で、そして何より、男だった。
 で、そいつの中で俺は「忠犬君」というあだ名になりつつあるのだという。
 なんだか釈然としなかったけれど、楽しそうに話す彼女に水を差すのも悪いかと思い口をつぐむ。そしてこんな風に他人にあだ名をつけるヤツをふと思い出す。
「……なんか花椿みてぇ。そいつ」
「でしょ? オシャレも詳しいし、なんか話しやすくて」
 それを聞いてもやもやが増した。
 美奈子には高校の頃から男女問わずこのような友人が多い。それは彼女の人柄ゆえのことだろうと思っている。それに口を出すつもりは毛頭ない。ないけれども、俺の勘が告げていた。
 彼女は無邪気に喜んでいるだけかもしれないけど、相手は絶対それだけじゃねー、って。


 授業が終わったから教室の前まで迎えに行くと、彼女は件の男と談笑していた。
「お、噂の忠犬君」
「……押忍。どうも」
 そして無意識にダッシュしていた事に気づく。指摘された通りでなんだか面白くなかった。
 彼は意味ありげに微笑むが、この感じはあれだ、試合の時に感じる殺気に似ていた。恋愛ごとに鈍いと言われる俺でもさすがにこれはわかる。目力なら負けねー、とばかり睨み返す。
「やっほー嵐君。じゃあお昼行こっか」
 その隣でひらひらと手を振る美奈子を見て、俺の気はいくらか紛れた。
「うん。行くぞ」
 そうして彼女と連れ添って学食に向かう。
「小波ちゃん、またねー」
 と呼ぶあいつの声が耳に障った。なんだよ苗字にちゃん付けって馴れ馴れしい。


 俺はいつもより足早に歩いていたらしい。「嵐君! ちょっと待ってよ」と美奈子に言われて初めて気づく。
「っと、悪ぃ」
 立ち止まり振り返ると、彼女がようやく追い付いてきた。
「どうしたの? 考え事?」
「ああ……ちょっとな」
「そっか」
 彼女の同級生のことでもやもやが頭を占めていたけれど、口にはしない。美奈子の歩調を意識して、ゆっくりと歩き始める。
 こいつは人の気も知らず「嵐君って犬に例えるなら柴犬だよね〜」などとのんきな事を言っている。犬に例えられるのに嫌気が差していたこともあり、つい棘っぽい言い方になってしまう。
「なんで?」
「私、子供の頃柴犬飼ってたんだけどね、柴犬ってただ素直に懐いてくれるだけじゃないんだよね。どこかクールで読めないところがあったりして」
「それ俺のことか?」
「そうそう。そんなところもかわいいんだけどねー」
「かわいいって言うな」と言うと「柴犬のことだよ!」とかわされた。こいつは俺の事をかわいいと思っている節があるらしく、隙あらばこういう事を言ってくる。納得はいかないが悪い気はしていない。
「柴距離って知ってる?」
「知らねー。なんだ? それ」
 美奈子がなぜか口ごもっている。
「なんだ。はっきり言え」
「……うん。ええと……柴犬って他の犬と少し違って、仲良くなったなあと思ったら微妙な距離を置いたりして、それが柴距離っていうの」
「それ、俺のことか」
 これは察しの悪い俺にもわかった。柴犬に例えているけれど、俺のことを指しているのだろう。感情を表に出すのは得意ではない。負の感情であるなら尚更だ。だがそんなもやもやも彼女は見抜いているのだろうか。
「ごめんね。気を悪くしないでほしいんだけど……だからね、何か思うところがあったら、その……言ってもいいと思うんだ。彼女なんだし」
 斜め後方を振り向くと、美奈子が遠慮がちに視線を送っている。
「悪ぃ。気を遣わせちまったか」
「ううん。お互い様だよ。もしかしたら何か怒らせるような事しちゃったかもしれないけど、そんな時は言ってくれた方がいいもん」
 美奈子のこういうところが好ましいと思う。けれど、俺は口に出すべきかどうか迷った。件の同級生の事。そしてこれは俺の直観だが、あわよくば横取りされるんじゃないかという事。いや、色々いけ好かない理由を考えていたが、要するに嫉妬だ。
 後輩の新名の言葉を借りれば「ダセェ」ということぐらい、自分でもわかっていた。
「なあ。あいつの事、どう思ってるんだ」
 美奈子はあいつって? ときょとんとした後、件の彼を指していることに気づいたようでこう答えた。
「話しやすい友達だよ。それがどうかした?」
 彼女は歩きながら俺の手を取った。二人で出かける時ならいざ知らず、大学でこんな風に手をつないだりするのは珍しかった。大学内では彼氏と彼女ではなく、ただの級友のように振る舞うという暗黙の了解のようなものが二人の間で出来上がっていたからだ。高校の頃からなんとなく続いていた習慣が今になっても残っていた。
 爪に触れると、つるりとした感触がした。ぴかぴかに磨かれている。
「それ」
「ああこれ? 爪、綺麗にしてもらったんだ〜。ホントは実習の邪魔になるから爪はいじれないんだけど、磨くぐらいならいいかなって」
 またあいつの話題だった。
 他人の彼女にべたべたと触っていいと思っているのだろうか。
「あいつに爪磨いてもらうの禁止な」
「ええっ」
 彼女は釈然としない様子で「綺麗になったのにさー」と呟いている。
「爪がいけないんじゃなくて、あいつにべたべたと触らせんな」と言ってようやく伝わったようだった。我ながら女々しいと思う。けれど、言わなければ伝わらないし、今ちゃんとお互いの気持ちを伝えるように決めたばかりだ。
「そんな風に思ってたの? そんなの心配しなくても大丈夫だよ」
 美奈子はけろりと答える。一体どこまで伝わっているのだろうか。彼女の人付き合いは男女問わず幅広く、けれどそれはある種の無神経なのではないかと思う。例えば、自分に好意を持った異性が近づいてくることなど考えないのだろうか。
 そうこうしているうちに学食に到着し、俺たちは食券の列に並んだ。
「おなかすいちゃったよ! 日替わり、まだあるかなー」
「俺、カツカレー大盛り」
 考えていても仕方がない。
 いいだろう、忠犬と呼ばせておけば。だが、俺にも考えがある。



 今日も授業が早めに終わったので、俺は美奈子の教室へ迎えに行く。
 彼女の姿を見つけ、俺はダッシュで駆け寄った。その隣で例の同級生が面白そうに顔を歪ませる。だがそんなことは些細なことだ。
 あっという間に美奈子の元へ到着し、そしてぎゅっと腕の中に閉じ込めた。
「……え? どうしたの?」
 彼女は腕の中で焦ったようにじたばたともがいていた。当然だろう、こんなスキンシップを大学内でしたことなんてないからだ。だが今は、ちゃんとわからせてやる必要があった。誰がこいつの彼氏なのかということを。
「ちょっと嵐君、みんな見てるよ」
「駄ー目ーだ。離さねえ」
「えぇ……」
 そうは言いながらも、どことなく嬉しそうだった。
「こんなこと言うの今更かもしれねーけど、ちゃんと俺だけ見てろ」
 美奈子はまじまじと俺の顔を見た。そして「ふふっ」と笑った。
「笑うな」
「ごめんごめん。……言われなくても、いつも嵐君だけ見てるよ」
 周りから囃し立てるような歓声が上がる。
 ああそうか、と思った。
 彼女の言葉はこの間と変わっていない。つまり、これは自分の気持ちの問題なのだ。
「わかった。よし」
 少しばかり力を込めて抱きしめる。「痛いよ」などと文句を言いながら、美奈子は笑っていた。

 さて、美奈子の方は解決した。気持ちが通じ合っているのを確かめただけだと言ってもいい。問題は件の同級生の方だった。
 視線を上げると、彼はしばらくぽかんとしていた。そして一言。
「ベアハッグだ」
「は?」
 予想と違う反応が返ってきたので、俺の方こそ呆然とせざるを得なかった。
「すっげー。忠犬改め熊五郎ということでどうだろうか」
「どうだろうかって何だよ。断る」
「熊五郎君は総合格闘技なんだっけ?」
「柔道だ。つーか大学で総合格闘技なんて教えてねーよ」
 俺はすっかり毒気を抜かれてしまった。
 なんか花椿というより、美奈子の幼馴染のあいつを思い出した。独特の名づけセンス、というより意味がわかんねー。
 美奈子が腹を抱えて笑っている。「漫才師みたい」だと。こいつとコンビを組まされるのだけは御免だった。
「つーか小波ちゃん、カレシがいるんなら言ってくれないとー」
 美奈子は「えー言わなかったかなあ?」ととぼけている。ほら見ろ、やっぱり危なかった。
「こいつは俺んだ」
 改めて宣言する。そういえば高校の頃もこんなセリフを言ったような気がする。あの頃は気持ちだけが先走っていたけど、今は名実共に俺の物になった……と言ったら美奈子は怒るだろうか。
「そうだよ嵐君のだよ。っていうかわんこでもくまでも、嵐君はどっちでもかわいいよ」
「ねーよ」「それはない」
 声が重なってしまい、美奈子はまた笑った。






2019.04.16初出

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