4.ギャクテン(後)


 美奈子は帰り道をとぼとぼと歩く。「女の一人歩きは危ないから、せめて送らせろ」と言われて、断る勇気もなく従った。不二山は一言も発さず隣を歩く。何を考えているのかまったくわからないけれど、逆に自分も何を考えているのか説明できないことに気づく。口を開きかけて、何も言い出せずに閉じる。しばし沈黙が場を支配し、波の音と時折走る車の音だけが聞こえてくる。
「あ、あの。ありがとう」
「うん」
 家の前に到着し、美奈子は送ってもらったことに対してお礼を述べた。どうしてこんなことになってしまったのか、美奈子本人にもわからなかった。今日は買い物をして、アナスタシアでケーキを食べて、とても楽しかったはずなのに。
 ただ間違いなく言えることは、台無しにしてしまったのは自分だった。わけのわからない妄想にとりつかれて、怖くなってしまったのだ。謝らなければならない。もはや多くは望まない。嫌われても仕方ない。せめて、部活動に支障が出ないくらいにはしなければならない。ただの友達でもいい。それでもいい。
 翌日登校するなり、美奈子は不二山のところに向かった。そして思い切りよく頭を下げた。緊張して相手の顔が見れない。
「昨日はすいませんでした!」
「……おう」
 彼は困惑している風だった。そりゃそうだ。誰だって意味もわからず突然泣きそうになったら困惑するだろう。最悪嫌われてもおかしくなかった。
「昨日はその……動揺しちゃって。ほんとごめん」
「うん。どうした」
 彼は、やはり直球を投げ返してきた。予想はしていたが、美奈子は言葉につまる。「えっと」「その」などと繰り返すばかりで、うまく言葉が出てこなかった。
「その……怖くなっちゃって」
 彼はぽかんと口を開けた。
「怖いって俺が?」
「いやっ違うよ! そうじゃなくて――」
「じゃあなんだよ。ちゃんと説明しろ」
 誤解されたままなのは嫌だったが、かといって本当のことなど言えそうになかった。部活仲間だと割り切って行動しているつもりが、本当はただの未練がましい女。そんなのを知られてしまったらまた呆れられてしまうだろうか。そうこうしているうちに予鈴が鳴り、大迫先生が教室に入ってくる。美奈子はごめんね、とつぶやくとそそくさと踵を返す。また後でな、という不二山の言葉を背中で聞きながら、席に着いた。



 告白は失敗に終わった。大失敗、と言ってもよかった。あんな予防線など張ろうとせず男らしく切り込むべきだったのだ。そのせいで美奈子に気持ちを伝えられず帰してしまった。
 自分の気持ちを伝えて玉砕したのなら、まだマシだった。ただ彼女の泣きそうな表情を見て、あれ以上のことは言えなくなってしまったのだ。その上理由を問いただしたら「怖くなった」と聞かされて、つい声を荒げてしまった。怖がらせてしまったのかもしれない。もっと近づきたい、彼女に触れたい。あわよくば――という不二山自身の欲望が、全部顔に出ていたのだろうか。自分の余裕のなさが原因だった。
 それに。これはあまり考えたくなかったが、ひょっとして、もう自分以外に好きな奴がいるのかもしれない。一度断ってしまった以上、自分に義理立てする必要はないのだから。もはやチャンスなどないのかもしれない。不二山の頭の中で、もやもやしたものがずっと渦巻いていた。
 朝、少し話をしてから、不二山はなんとか彼女と話す機会を窺っていた。が、休み時間が来るたびに美奈子はクラスを出てどこかへ行ってしまう。避けられている、と思う。
 昼休みになり、弁当も食べ終わり仕方なく机に寝そべっていると、クラスメイトが近づいてきて隣の席に座った。
「ゆうべはお楽しみでしたか」
「はぁ?」
 彼は「ドラクエだよドラクエ」などとわけのわからないことを言ってのける。
「小波さんといいとこ行ったんだろ?」
 不二山はむくりと起き上がる。なんで知ってんだよ、と問うと「みんな知ってるよ」とのたまう。
「琥一と派手にやりあってたのにさ、知らないわけないだろ」
 どうやら廊下でのやりとりを見られていたらしい。「おまえそういう話好きだよな」と呆れていると、彼と仲のいい女子が寄ってきて会話に混ざってきた。面倒なのが増えた、と片肘をつく。
「不二山くん、昨日のデートどうだったの?」
 そう聞かれて「おまえもかよ」と突っ込みをいれる。どうして他人の詮索をするやつが多いのか、不二山にはわからなかった。
「買い物に行っただけだ」
「えーそれだけ?」
「それだけってなんだよ」
「なんかこう、もっと浮いた話をさあ!」
 不二山には浮いた話の意味がぴんと来なかったが、ふと思い出す。
「そういえばあいつ、昨日知らないおっさんに絡まれてて――」
 怪しいおっさんの話を素直に聞いている風だったから、追い払ったのだ。本当に危なっかしい。自分がついてなければどうなったことか。と、そこまで語り、はたと気づく。二人がにやにやしてこちらを見ていたからだ。
「お前、ホントわかりやすいヤツ。小波さんの話になるとすぐ食いつくし」
 そう言われて、不二山は黙りこくった。その様子を見て両隣で笑いが起きる。納得いかない。
「ハァ……だってそれは……いや、やっぱ言わねー」
 彼らはそれを聞いて「うわー本当だ」「な、重症だろ?」と語り合っている。
「なんだよ?」
「お前『マネージャーだからだろ』って言わなくなったもんな」
「!!」
 不意打ちだった。自分の心の内はしまっておいたつもりだったけれど、どうして彼らに見抜かれているのだろう。絶句していると、彼は言った。
「おいおい、俺とお前の仲だろ〜。何今更驚いてんだよ」
「でもさあ」女子が声を潜めて言う。「君たちあんなにラブラブだったのに、最近なんでよそよそしいのかなって。何かあったの?」
「お前もしかして……やったのか」と男子が悪ふざけを言い、隣で女子が爆笑している。「ねーよ」と言うと「だよなあ」と相槌を打ってくる。いったい何だと思われているのだろうか。
 不二山はため息をつく。
「ハァ。俺がふがいないせいだろ」
 不二山らしからぬ言葉に、同級生たちは顔を見合わせた。そしてばしばしと背中を叩いてくる。
「俺はお前の味方だからな」
「なんだよ」
「俺の胸で泣いてもいいんだぜ」
 などと言い、大げさに肩を組まれる。どうやら同級生の中で自分が振られたことになっているらしかった。かといって訂正するわけにもいかず、適当な相槌を打つ。それが気落ちしているようにでも見えたのだろうか、彼らのやる気に火をつけたようだった。
「ったくしょうがねぇな」
 そう言い、彼らは二人でこそこそ何かを話しはじめた。なんだか嫌な予感がした。


 休み時間が来るたびに、美奈子は逃げるように隣のクラスに行った。お昼もお弁当をみよとカレンのクラスで食べた。二人とも歓迎してくれたけれど、昨日の出来事をうまく話せる気がしなくて、しばらく当たり障りのない話に終始した。
 琥一くんを目で探したけれど、今日はいないようだった。この間の話しの続きをしたかったけれど仕方ない。
 教室に戻るなり、クラスメイトの二人が美奈子を囲んだ。いつも不二山と一緒にいる男の子と彼と仲良しの女の子。「小波さん、ちょっと来て」と教室の隅に連れ込まれる。
 女の子が唐突に切り出した。
「小波さん、昨日不二山くんとデートしたんだって?」
「ええっ。デートっていうか……部活の買い出しだよ」
「部活? 不二山くんはそんなこと言ってなかったけどなあ」と彼女は首をひねる。
「あ、そうそう! 部活の買い物だって聞かされてたのに、行ってみたら不二山くんの買い物だったの! もう、ひどいよね」
 笑いを取るためになるべく明るく言ったつもりだったが、場が妙な空気になる。
「……小波さん、ひょっとして天然小悪魔系?」
「え……」
 そんなことを言われたのは初めてだった。
「まぁいいや。不二山くんとは、どうなの」
「どうなのって……部活の友達だよ」と、何とか言いよどむことなく口にすることができた。知らずうちに頬が赤くなる。ちら、と不二山の方を見ると目が合う。
 男子も会話に混ざってくる。
「俺が言うのもなんだけど、不二山、いいやつだぜ?」
「あはは。そうだよね」
「ちょっと天然だけどな」
 それも知っている。
 そして不二山の男気あふれるエピソードを聞かされているうちに、なんだか状況を飲み込めてきた。彼らは不二山と美奈子をくっつけようとしているのだ。善意で。何も知らずに。
 そうなりたいのはやまやまだった。だが出来るわけがない。だってとうに断られているからだ。はじめのうちは笑っていたが、だんだんそれもつらくなってくる。そんなの聞かされたって、自分にはどうにもならない。
 女の子が小声で聞いてくる。
「ひょっとして小波さんってさ、琥一くんのことが好きなの?」
「えっ。そういうわけじゃ……琥一くんは幼馴染で」
「ふーん。他に好きな人とかいるの?」
「えっと、あの」
 困っていると、彼女はさらに追撃してきた。
「不二山くんの気持ち考えたことある?」
 美奈子の頭からさあっと血の気が引いていく。そして彼女は続ける。「不二山くんがかわいそう」だとも。
「えっ……あの、どういうこと……」
「小波さんが煮え切らない態度取ってるからさあ。そういうの、ずるいと思うよ」
 それは美奈子の心を刺した。煮え切らない態度を取っているのではなく、身動きが取れないだけだ。これ以上近づけないのは知っているから、せめて友達でいたかったのに。それすらも許されないのだろうか。
「小波? どうした」
 異変を察した不二山が近づいてくる。
「そ、そんなの――」
 そんなの、知らない。思ったより大きな声が出ていた。
「だって、不二山くんには……振られたんだもん」
 それは勢いに任せた言葉だった。二人が唖然としているのを見て、美奈子は失言をしたのだとはたと気づいた。
 いたたまれなくなって美奈子はクラスを出た。


「おまえら、小波に何した」
 同級生たちは軽くパニックに陥っていた。「そんなつもりじゃなかった」などわけのわからない弁解を聞きながら、不二山は美奈子を追って教室を飛び出した。「つーか不二山もわけわかんねーよ」と評されているのを耳はとらえていたが、それどころではない。
 不二山は学校中を駆け回る。階段の踊り場。中庭。校舎の裏。部室。そしてようやく、屋上の片隅で小さくなっている美奈子を見つけた。ざらざらしたコンクリートの上に、制服が汚れるのも気にせずぺたりと座り込んでいる。
「小波。授業始まるぞ」
「……うん」
 不二山の呼びかけに美奈子は動こうとしない。しかたなく隣に腰を下ろし、胡坐をかく。予鈴が鳴っている。
 そのまま、しばらくぼんやりと青空を眺めた。ちら、と横目で美奈子を見やると、表情をなくした白い顔をしている。どう声をかけるか考えあぐねていると、先手を取られる。
「不二山くんは授業にいきなよ」
「そういうわけにはいかねぇ。おまえが心配だから」
「……えーと、その。そっか。ありがとう」
 そして部活はちゃんと行くから大丈夫だよ、とついでのように言われる。なんだかとても心外だった。
「部活?」
「だって……心配してくれるのはマネージャーだからでしょ?」
 それは美奈子には珍しく棘のある言葉だった。
「違ぇ」
 そうじゃねえ。そうじゃねえだろ。大声で叫びたかった。
 ただ純粋に美奈子を心配して来ただけなのに。どうしてそれが柔道部の話に曲解されているのか、不二山には理解できなかった。どうして伝わらない?
 だが不二山は気づいた。そんな中途半端なことをしていたのは自分なのだと。不二山は彼女を引き留めた。柔道部のマネージャーが辞められては困る、などと言って。柔道部の買い出しを口実に、買い物に付き合わせたりもした。彼女の好意にかこつけて、いいように使っていたのは自分自身ではなかったか。
「……そっか。俺、おまえの気持ちがはじめてわかった気がする」
 ぴくり、と美奈子の肩が震え、それまで平静を保っていた顔が崩れる。彼女はおびえる小動物のように、不二山を見ていた。
「なに、それ」
「好きな奴に気持ちが伝わらないってのは、つれぇな」
「こ、この話はやめよう」
「こな……美奈子」
「な、なんで名前……」
「美奈子。好きだ」
 彼女はしばらく固まってから「うそ」とつぶやいた。
「うそじゃねぇ」
 どうして伝わらないのか。不二山は座ったまま美奈子の近くに寄る。もっと近くへ。お互いの体温が感じられるほどの距離まで詰める。
「おまえの気持ちが知りたい」
 美奈子は不二山から目をそらした。元々小さい体が、さらに小さく縮こまる。
 不二山は手を伸ばす。嫌がられるかもしれないと思ったが、彼女は動かない。そのまま頬に触れる。ぐっと身を乗り出し、正面から顔を覗き込んだ。ようやく美奈子は顔を赤らめて近いとか何とか言い出したが、嫌がらないことをいいことに、しれっと「普通だろ」言ってのける。なんならもっと近づいてやってもいい。そうお互いの唇が触れ合うところまで――と考えて、かろうじて思いとどまる。まだちゃんと返事を聞いてない。
「おまえの苦しみも、悲しみも、俺が全部引き受ける。だから言ってくれ、思ってること全部」
 そう言い、じっと待つ。やがて美奈子が、蚊の鳴くような声で「……わかんないんだもん」とつぶやいた。一字一句聞き逃すまいと顔と顔が触れそうになる距離まで近づいてやる。
「わかんないって何が」
「不二山くんが」
「俺?」
 責めるような響きを含んでいたのだろうか。彼女は、はっとして「違う、そうじゃないんだ。また他人のせいにして……」とつぶやきだすが、それを止める。
「いいよ。俺のせいだろ」
 全て自分がしたことだった。彼女との関係を取り戻したかったけれど、自分の気持ちも自覚できないまま中途半端なことをしたから、美奈子は苦しんだ。
「違うんだ。勝手に期待して、勝手に落ち込んでただけ……。だから私、もう期待するのはやめようと思って……でも不二山くんは思わせぶりなことを言ってくるし、私……もう、わかんないよ」
 彼女は苦しそうに目を伏せる。好きだと言われて舞い上がって「部活の仲間だから」と突き放されることを彼女は恐れていた。それも全て自分が原因だった。ましてや一度彼女の気持ちを無碍にしておいて、そう捉えられるのも無理はない。
「あん時は悪かった。俺、自分の気持ちに気づかなくて……おまえを泣かせてようやく気づいた。バカなんだな、俺」
 そう言い、そっと彼女の頬を拭う。
「泣いてない」
「いいよ泣いても。その代わり、俺のところで泣け」
 そうして美奈子を自分の胸に閉じ込める。ずっとこうしたかったのだ。琥一に慰められている彼女を見てから、その光景が頭にこびりついていた。そしてずっと悔いていたのだ。彼女の隣には自分がいるはずだったのに、と。
 美奈子は抵抗するように弱弱しく不二山の胸を叩いていたが、やがてその手が止まる。ワイシャツを握り締めている感触がして、少し安心してそっと頭をなでてやる。変な気分になるけれど、決して悪い気分ではなかった。
「だって……だ、大事にしてくれるのは、マネージャーだからでしょ?」
 再び同じことを問われて、不二山は慎重に答える。
「……否定はしねぇよ。おまえはうちの大事なマネージャーだからな。けど、手つないだりすんのも、こうやってちゃんと話を聞きてぇと思うのも、おまえだからだ」
 嗚咽が聞こえてくる。その小さな背中をさすってやる。柔道部やクラスの男たちとは全然違う、小さくてしなやかな体躯。ろくに筋肉もついていない身体。
「俺、おまえにふさわしい男になるために頑張るから」
「うん……」
 嗚咽の中から「ありがとう」と聞こえた気がした。


 涙が落ち着いていくにつれて、美奈子は今置かれている状況に気づかされることになった。
 体中の体温が上昇していく。恥ずかしくて、顔を上げられない。だが、下を向いたところでここは不二山の胸の中だった。逃げ場などどこにもない。彼のごつごつした手がゆるゆると美奈子の頭を撫で、もう一つの手は背中に回されていた。
 頬にひやりと冷たいものが当たる。不二山のシャツが涙で濡れている。それで、自分のせいで濡らしてしまったのだと思い至る。ハンカチをポケットから取り出してシャツを拭き始めようと試みるが、それに気づいた不二山に奪い取られた。そして乱雑に顔を拭かれ、美奈子は顔をしかめる。不二山は笑う。もうすっかり泣くどころではなかった。
「俺のことはいいから、自分のことを気にしろ」と鼻まで拭かれそうになり、慌ててハンカチを奪い返した。半ばやけになって鼻を拭う。涙どころかこんな醜態までさらしてしまい、もはや恥ずかしいものなどなかった。
「なあ。こっちを向け」
 そう促され、意を決して顔を上げる。彼は不敵に笑おうとして失敗していた。不二山につかまれた腕がやけに痛い。それで、美奈子は気づいた。緊張しているのだ。試合で追い込まれても不敵に笑ってみせる、あの男が。
「柔道部とか、そういうのは関係ねぇ。おまえの気持ちを知りたい。――俺のこと好きか」
 美奈子は「はい」とうなずいた。迷う必要はなかった。
 不二山もきっと同じなのだ。何の迷いもなく、ただ己の道を突き進む男だと思っていたが、そうではないのだ。彼もまた悩み、迷う、普通の男なのだと。そう思ったからだ。
 だが冷酷にも彼は首を振った。
「駄目だ」
 予想していなかった言葉に、ぶわっと汗が噴き出る。恐る恐る見つめ返すと、今度こそ、いつも見るあの悪い笑顔だった。
「ちゃんと言え」
「え? ……はっ!?」
 そして大きな手でぎゅっと顔を挟まれる。彼の顔が至近距離まで近づいてくる。「好きです」と、言い直しさせられた。何度でも。不二山の目を見て、きちんと言えるまで。
 あまりにも恥ずかしくて、勢いに任せて不二山を叩いたが、彼は笑っていた。


 美奈子が落ち着くのを待って、二人は教室に戻った。
 授業はもうとっくに終わっていて、教室では気まずそうにクラスメイトが声をかけてきた。
「もうちゃんとつかまえたから大丈夫だ」と不二山が美奈子の肩を組んだまま答えると、クラスはにわかに沸き立った。
 そして部活に向かおうとしたところで、大迫先生につかまった。柔道部顧問、クラスの担任。そして先ほどさぼった授業、現国の先生。
「おまえたち。俺の授業をさぼってどこで何をしていた」
 二人は職員室に呼び出され、大迫の席の前で立たされていた。
 不二山は仁王立ちして大きな声で答える。
「口説いてました!」
「バッカヤロー!」
 ごつっ、と鈍い音がして、美奈子は思わず目をつぶる。不二山は表情にこそ出していないが、今日のげんこつは格別痛そうだった。
「おまえたち学生の本分は何だ? 愛を追い求めるのも結構だが、授業をさぼってはだめだ。学校生活に影響がでるようじゃあまだまだ一人前とは言えん!」
「押忍」
「すいません……」
 大迫先生の言うことが胸に突き刺さる。一連のごたごたで、柔道部にも不二山にも迷惑をかけた。友達にも心配をかけた。全部自分が未熟なせいだ。続いて大迫先生は美奈子の前に立つ。あの握り拳が美奈子の頭に向かって振りおろされるのだ。痛そうだけれど、覚悟を決めるしかない。
「大迫先生」
 だがそこに不二山が割って入った。美奈子が不二山の背中に隠された、と言った方が正しい。
「なんだ」
「こいつのぶんも、俺が引き受けます」
「ちょっと! 不二山くん!」
「いいんだ」
「よくない。全然よくない。先生、むしろ不二山くんを巻き込んでさぼらせてしまい、すいませんでした」
 謝ろうにも不二山の背中が立ちはだかっていて、大迫先生が見えない。不二山を押しのけようとするが、百戦錬磨の柔道家と一介の女子マネージャーでは無理があった。押し合いをしているうちに、大迫先生が苦笑した。
「先生、これじゃあ罰を与えにくいな」
「美奈子にげんこつするなら、俺を倒してからにしてください!」
「調子に乗るなぁ!」
 不二山の頭にポカリ、と再びげんこつが炸裂した。職員室は笑いに包まれる。
 大迫先生が苦笑して手を下ろした。どうやらこれで終わりにするつもりらしい。
「おまえたちの気持ちはもう充分わかった。式を挙げるときは先生も呼べよぉ」
「先生っ!? もう……!」
 だが真に受けて動揺したのは美奈子だけ。不二山がそんな先生の軽口に動じることもなく「はい。仲人は先生にお願いします」なんて真面目くさった顔で言うものだから、後ろからグーで叩いてやった。
「なんだよ? 嫌だっつっても、絶対離さねーぞ」
 体中がかっと熱くなる。不二山はこんな人だったのだろうか? 彼の言葉がだいたいそのまんま言葉通りだとわかった今、なんだかとても恥ずかしい。照れ隠しに「いやだっ!」と叫んでみると、とたんに自信に満ちていた表情がへにょへにょと崩れる。
「……本当に?」
「な、なんでそこでそんな顔をするの……! 絶対離さないって言うから……わあっ!」
 ほんのちょっと、試したくなっただけなのに。焦っていたら、肩をがっちりとつかまれた。いや、抱きしめられたのだと知る。
「もう怒った。絶対離さねー」
「意味わかんないよ!」
 ぎゅっと抱きしめられたまま、なんだかおかしくなって途中から笑い出した。不二山もつられて笑っている。彼の頭の中には何が起ころうと「絶対離さない」の文字しかないらしい。
 ひとしきり笑った後、大迫先生がおもむろに口を開いた。
「おまえたち、ここ職員室だからな? 元気なのも結構だが」
「何を騒いでいる!」
 和やかな空気は、ちょうど職員室に戻ってきた氷室先生によって幕を下ろされた。
「大迫先生、何ですこの騒ぎは」
「い、いやぁ〜。ちょっと生徒たちに注意を」
「押忍。先生、ご指導ありがとうございます」
 不二山は姿勢を正し、ぺこりと頭を下げる。このあたりの要領の良さはさすがだった。これで大迫先生の説教は一段落したような空気になり、氷室先生が大迫先生をそれとなく呼び止めていた。職員室が不穏な雰囲気になりかけたところで、二人はこそこそと退散した。
「じゃ、美奈子。部活に行くぞ」
「お、おっす。失礼しました」


 不二山は美奈子の背中を押し、職員室を出た。二人は肩を並べて廊下を歩く。
 美奈子は横で悠々と歩く不二山をちらりと眺め、そしてまた赤面した。彼はいつも通り顔色一つ変えていない。自分一人だけ意識しているように思えて、なんだかとても恥ずかしかった。
「なあ。今度の大会」
「ん?」
「勝つ」
 彼はぎゅっと握りこぶしを作る。美奈子はほっとして破顔する。部活の話題なら、いつも通りだ。
「気合い入ってるね!」
「おう。大会で優勝したら……」と、そこでいったん言葉を切る。しばらく何かを考えている風だった。
「やっぱ言わねー」
 美奈子は少し悲しくなった。けれど、言ってくれないのは自分のせいだと思う。あんな逃げ方をしたからだ。
 彼とならどんな未来でもちゃんと向き合いたい。そう伝えなければ。
「もう逃げないよ。どんと来い」
 そうしてちょっとふざけたように両手を構えると、素早い身のこなしで手首を掴まれた。やはり柔道部主将、と感心していると、その手がするすると手のひらに降りてきて、手をつなぐ形になる。ぎゅっと手を握りしめられて、美奈子は再び顔を赤くする。
「そうじゃねえ。願掛けだ。勝ったら言う」
「……わかった」
 待ってるね、と言うと、彼は嬉しそうに美奈子の頭を撫でた。

 その後彼は危なげなく大会で勝ち進み、彼の決意にも似た告白を、美奈子は聞くことになる。

(終)



2016.01.31

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