建前の、その向こう側
部活終了後の柔道部はがらんとしていた。熱気にまみれていた部室の空気はしんと冷えて、張りつめた空気が漂う。
その部屋の真ん中で一人、不二山は畳の上で胡坐をかいて待っていた。マネージャーから「お話があります」と言われたからだ。
いったい何の話なのだろうか。心当たりは、あるような気もする。けれど確証が持てない以上、口に出すのははばかられた。本人から直接聞けばいいだけ、と心に決め、瞳を閉じる。
そこへからからと扉の開く音がして、柔道着姿の小波が部屋に入ってきた。不二山は目を丸くする。部活も終わりだと言うのに、わざわざ着替えてきたらしい。真新しい柔道着と胸元からのぞく白いシャツに、目を奪われる。
「おまえ……なんでその恰好」
小波は答えない。畳の上に上がり込んできたと思うとすっと正座をし、そして礼をする。その凛とした姿に不二山は見惚れてしまう。
「ずっと考えてたけど、これしか思いつかなかったの」
彼女の思いつめたような声色に、不二山は現実に引き戻される。しかし話が見えない。彼女はいったい何の話をしているんだろう。しかも柔道着に着替えてまで。
「いったい何の話だ」
「不二山くん」
小波はすっくと立ち上がる。そして構えた。
「行くんなら、私を倒してから行け! 勝負だ!」
「……は?」
あっけにとられていると、小波が近寄ってきた。そして襟をつかみ、不二山を引っ張り上げようとする。
「どうした! かかって来い!」
「いや……どうしたもこうしたも、おまえがどうしたんだよ」
引っ張られるまま立ち上がるも、さっぱり読めなかった。何を考えて勝負を挑もうとしているんだろう。しかも柔道で。彼女はマネージャーだけれど、受け身すらろくにしたことがないはずだった。実力差は歴然としている。
だが、彼女の瞳に宿る強い意志は消えなかった。
しかたなく不二山は組み合う。
見よう見まねの動きはたしかに粗いけれど、彼女は強い闘志を燃やしていた。あいつらも普段からこれぐらいやる気を出してくれりゃいいのに、と後輩たちを思う。と、油断していると足元をすくわれそうになる。早いところ決着をつけなければ。
体重移動の瞬間を狙って足を引っ掛けると、案の定小波の身体は簡単に傾いた。襟と袖を掴んだままゆっくりと下ろし、すとんと座らせる。勝負にすらならない。
そのまま小波は膝を抱えて動かなくなった。ろくに組み合ってもいないのに、荒い息を吐いている。
「……どうしたんだよ」
さっきまでの威勢はどこにいったのか。彼女は畳に座り込んだまま、小さくなっている。
「やっぱり、勝てるわけないか……」
「当たり前だろ」
「いいよ。どこにでも行けばいいよ」
「だから、何の話だよ」
「一体大付属、行くんでしょう」
彼女は下を向いたまま、細々とつぶやいた。
それで合点がいった。小波の妙な行動がようやく一本の線につながったのだ。
不二山は頭をかいた。
そうだった。一体大付属高校の柔道部から引き抜きの話が来たことを、彼女にだけは話していたのだ。
思えばその頃から、小波の様子はおかしかった。いつもはサポートに徹して黙々と動いていたけれど、彼女から後輩に指示が出ることが増えたような気がする。そしてふざけている新名に本気で叱りにいき、反目しあったり。おかげでここ数日の柔道部はどこかぎくしゃくしていた。ひょっとして全部一人で抱え込もうとしていたのかもしれない。
「ごめんね、変なことして。どうしても……吹っ切りたかったの」
「……そっか」
不二山は小波の隣に腰を下ろす。そして下を向いたまましゃべる彼女をじっと見つめていた。
「引き抜きの話を聞いたとき、ショックだったけど、うちみたいな小さなとこにいるよりは、ずっといいんじゃないかって、思ったの」
「……あのさ」
「だから、不二山くんは前だけを見て。わたし、おうえんしてる、から」
「断った」
「……ふぇ?」
「その話だけど、断ったぞ」
黒目がちの瞳がこちらを向いた。
「な、なんで!? あんないい話……断った、って」
そう言いながら、小波はにじり寄った。そして不二山の肩にぺたりと触れる。そのぬくもりに心がふわっと踊る。
「だって向こうにはおまえいねーもん」
小波は言葉を失ったまま、目を瞬かせる。
「おまえも新名も、後輩たちも。こんな中途半端なとこで置いていけねえ」
それは嘘偽りのない不二山の本音だった。だが、小波の表情は沈んだまま変わらない。
「……それって、頼りない、から……?」
「ん?」
「私たちがまだまだ半人前だから、不二山くんは安心して行けないんだ」
まるで自分たちが足かせになっているかのような言い分だった。なんだかとても心外だった。
「そうじゃねえ」
「わたし、もっとしっかりするから――」
そう言いかけた小波の肩を掴む。
もやっとする気持ちを言葉に表す前に、体が反射的に動いていた。
首の後ろに手を回し、足を掴み、そのまま胸の上から抑え込む。男とは違う感触に、意識がふわっとする。ミルクのような匂いが鼻をくすぐる。女の匂いだ、と思う。
それをなんとか理性で抑え込み、カウントを始めた。
「いち、にー、さん、しー……」
「え!?」
さすがの小波も事態を察したらしい。ばたばたともがくが、簡単に外れるはずがない。手加減はしているが、経験の差からいって外すのは難しいだろう。
「これって横四方固め!? どうして!?」
「まだ一本取ってねぇもん」
さっきのは控えめに見ても大外狩りのかけ損ないだった。せいぜい有効がもらえるか、といったところだろう。ならば、と無理やりかこつけての合わせ技。
カウントが十を過ぎたあたりで、小波がぱたぱたと肩をはたいた。新名あたりだったら叱ってやるところだが、致し方ない。少し弱めてやる。
しかし、離してやるつもりはさらさらない。上半身の抑えを少し緩めるが、密着した姿勢は崩さない。小波の体は小さくて頼りなく、そして柔らかい。柔道部の男連中とは全然違うことを改めて意識する。
一向に解かれる事のない寝技に不審を覚えたのか、小波が身じろぎする。
「あ、あの……」
「もうちょっとだけ」
「えぇ……もう降参したよ!」
じたばたと抵抗を続けるが、心なしか顔が赤い気がする。ぴったりとくっついた体から胸の鼓動が伝わってくる。
「うん。勝ったから好きにしていい、だろ」
「そんなこと言ってない!」
にやっと笑いかけると、小波が赤い顔をして押し返してくる。必死になる彼女をからかうのは非常に面白い。もう少しいじめてやりたくなる。
だが、さすがに正当な理由もなく女の体の上に乗っかったままなのはさすがにマズイかと思い直す。小波の首の下に回した腕をそのまま枕にして、寄り添うように寝転がる。
「なあ」
じっと見つめるが、そっぽを向いてしまった。
「なあ、小波。こっち向け」
ちゃんと話したいと思ってはいるけれど、小波はこちらを向こうとしない。いつもはきびきびと動くのに、こういうときばかりは従わないのだ。こんなに近くにいるのに、通じ合うことはできないのかと思うともどかしい。
彼女はそっぽを向いたまま、すねたように言う。
「もう……知らないっ」
「なんですねてんだよ?」
本気で押し倒してやろうかと一瞬思い立ち、押しとどまる。
そもそも勝負を挑んできたのは小波の方だった。それも柔道という、勝ち目のない手段で。結果は見えていたはずだ。さっぱり理由がわからなかった。
不二山は彼女に寄り添ったまま、辛抱強く待つ。外は既に日が落ちて、天井の明かりは煌々と部室を照らしている。
しばらくして、小波は口を開いた。
「……勝手だよね」
「は?」
「勝手だ、不二山くん」
「何が」
「私だって、真剣に考えたのに。相談するだけして、さっさと結論出して」
「ああ……」
なんだそのことか、と拍子抜けする。確かに相談はしたが、あの時点で結論はほぼ決まっていたようなものだった。余分に悩ませてしまったとは思うが、何故そこまで不機嫌なのかさっぱりわからなかった。
悪かった、と一応口にする。だが彼女の態度は変わらない。
そこまで機嫌を悪くしなくてもいいのに。
以前なら「俺のことなんだから自分で結論を出すべきことだろ」とでも言っていたはずだ。それは確かに正論ではあるけれど、それでは彼女の信頼を取り戻すのは難しいだろう。それぐらいはわかる。
だが、こういう時の怒りの静め方はわからなかった。女って、こんな面倒くさい生き物だったっけ――と思いかけ、すぐその考えを打ち消す。そういえば親父もお袋の理不尽な怒りには手を焼いていたっけ。そう思うと、なんだか無性におかしかった。
「なんで笑ってるの」
「ん? いや」
いつの間にか小波がこちらを見ていた。黒目がちな瞳が、じっと見つめている。唇が挑戦的にとがっているのを見て妙な感情に襲われる。
なんだか愉快だった。そういえば小波が直接文句を言ってくるなんて、あんまり記憶になかった。こいつは聞き分けのいいふりをして、不満をため込む。そんな奴だった気がする。お互いのことで真剣に怒ったりすることができるような、そういう関係になれたってことなのかもしれない。
ならば。ここは動くしかない。
「なあ。キスしていいか」
「は!?」
言いながら、小波の首に腕を回す。
「な、なんで」
「したくなったから。いま」
「わかんない! 言ってることがわかんないよ!」
暴れ出しそうになったから、しっかりと足で抑え込む。絶対に逃がすつもりはない。
「嫌か」
再度の問いかけに、小波は少し大人しくなる。
「嫌ならしねえけど」
そう言いつつ、不二山は彼女の右手を握りしめていた。そしてもう片方の手で背中を支え、ゆっくりと顔を近づける。言葉とは裏腹に、着々と籠絡の準備を進めていく。
息がかかりそうなほどの距離でぴたりと止まる。そうして、彼女の返事を待つ。
しばらくうなった後、小波はようやく腹を決めたらしい。
「わかりました」
その言葉を聞いてからの不二山の反応は早かった。
「うん」
「けど、ちゃんと説明し――」
最後まで言わせず、その唇を塞いだ。柔らかい感触がする。
不思議な感覚だった。ただの皮膚の触れ合いといってしまえばそうなのかもしれない。けれど、ぞくぞくする。もっとしていたい。もっと。支えている腕に力がこもる。
と、小波がいいかげん暴れ出してきたので離してやる。
「うう……」
彼女は不二山の胸元に顔を寄せたままうなっていた。どうやら顔を隠しているつもりらしい。調子に乗って小波の頭をなでてやる。とても愉快だった。
「引き抜きを断ったのは、おまえらが頼りないとか、そういうんじゃなくて。この柔道部と一緒に成長していきたいと思ったからだ」
自分が人を集めて発足した柔道部。それを中途半端なところで放り出していたら、それがずっと抜けない棘のように、心に引っかかっていただろう。それをわかってほしくて、不二山は言葉を重ねる。
「確かに一体大付属に行けば、技術は磨けるかもしれねえ」
不二山は息を吐いた。
「けど。はば学に来なかったら、俺は柔道の楽しさを知らないままで、ただひたすら親の求めるまま生きてたのかもしれねえ。回り道だ、って言うかもしれねえけど。俺にとっては必要な時間なんだ、って。そう思う」
自分の弱いところを認めるのは苦しい。だが、それを認めれば、また新たな一歩を踏み出すことができる。それが本当の強さなのだと思う。
柔道は、技術だけではない。心の強さも併せ持ってこそ強くなれる。師範が言っていた言葉の意味が、今ならわかる。
胸元から小さな声が聞こえた。
「わたしだって、行ってほしくなかったもん」
小波はうずくまったまま、不二山の襟をぎゅーっとつかんでいた。
「でも、不二山くんにとって――」
「やめ」
それを遮るように、ぎゅっと全身を抱きしめる。
「俺のため、とかそういうのはなし」
こいつはいつだってそうだった。人の事ばかり考えて、人の心配ばかりして。マネージャーとして、本音を押し殺してきたのだ。男としてそれに応えなければならない、と思う。
「俺はここにいる。そう決めた。だからおまえも、俺のそばにいろ」
彼女は顔をあげ、ちらりとこちらを見た。その表情だけで気持ちは通じた気もするけれど、敢えて口にする。
「返事は?」
「……はい」
「うん」
不二山は微笑んだ。
柔道をやりたくて、柔道を追い求めていたはずなのに。いつの間にかもっと大切なものを見出していたような気がする。それを教えてくれたのが、彼女なのだと思う。
口にこそ出さないけれど、今このように過ごしている時間も、とても大切なもののように思えた。
2016.07.31
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