森の守人


2.竜の巫女

 誰を恨めばよいのだろう。
 木々に遮られて光が届かないこの森も、ある地点を境にわっと視界が開ける。
 木々は切り開かれ、集落と呼べるほどの住居が地上に、あるいは木の上に点在し、太陽から精一杯の光を浴びていた。
 皆が知り合いであるほど、小さな村。子供たちの楽しそうな歓声が広がる。そしてもうじき、元服を迎えるであろう人たちも、心なしか浮き足立っているようであった。当然だろう。彼らはこのときをもって大人と認められる。森へ出ることも、所帯を持つことも認められる。これが喜ばしくないはずがない。
 そんな陽気であるというのに。その少女はただ一人、日の当たらない部屋で沈みきっていた。
 こんなに晴れやかな日だというのに。本来なら、今日から成人、つまり一人前の人として認められるというのに。
「とうとう、来なかったのね」
 と心底恨めしそうな顔で母は言った。
 この日までいやというほど聞かされてきた。隣のアッちゃんはもう「来た」らしい。三軒向こうのミィちゃんも。あの子は発育がいいからね。――で、あんたはまだなの。
 何が来なかったのかと問いただしてみても、母はそれ以上言わなかった。だが、心配しているというより、どうやら出来損ないの烙印を押されかかっているというのを女は本能で察知した。
 女は反発の光を瞳に宿した。わたしのせいじゃない。なんでわたしだけが。そう何度も何度も繰り返し、時には壮絶な喧嘩となることもあった。家を飛び出して、ご近所中を巻き込む騒ぎとなったこともある。
 そしてそう言われ続けているうちに、確かに他の人とは違うのかもしれない、と思うようになっていた。事実、女の体には変化が来ない。
 同年代の友人は成長している。子供の頃は一緒に遊んで、おしゃべりして、いたずらして、はしゃぎまわっていたその友達が、ふっくらと丸みを帯び、子供から大人の女性になっていく。それに比べて、身長は伸びたものの、胸はすとんと平らのまま。その体は女性らしい柔らかさの欠片もない。
 彼女の体には「大人」が降りてこないのだ。

 無邪気だった。
 一足先に「大人」になった友人たちのひそひそ話にやきもきする、それだけならかわいいものだった。いずれそこに加わることが出来るのだろうと思っていたからだ。
 明らかに人より遅れている。
 そうわかると、不安で仕方なくなってきた。形のない、ぼんやりとした不安。
 子供っぽい、との周囲のからかいに反発することしか出来なかった。体も小さいし、事実その通りだったからだ。
 式が近づくにつれて、娘はあらゆるものを試した。栴檀の葉が効くとか、松脂を塗るといいと聞くと、娘はこっそり試した。人は迷信の類だと笑うだろう。だが、彼女は必死だったのだ。なぜならば、このまま「子供」のままだと彼女は「大人」になれない――文字通りの意味もあるが、元服を迎えることができないと、彼女は今までのような生活ができなくなるのだ。大人になりぞこなった者は、人に非ず――非人として、どのような扱いを受けるのかも彼女は知っている。村のための犠牲として、非人は真っ先に切り捨てられる。
 その迷信さえも効かないとわかると、彼女は表に出ることをやめた。
 初めは心配して声をかけてくれた友達も、頑なに引きこもる彼女に見切りをつけた。
 もう、彼女には、家族と、家の中にあてがわれた一つの部屋しかなかった。
 水瓶の中を覗き込む。水面に映る自分の顔を見つめる。何が足りないのだろう。目の配置が少しずれている。よくよく見ると左右非対称なのが気になる。口元のほくろが気になる。平たい鼻が気になる。
 そこには陰鬱な自分の姿だけが映る。笑顔に満ち溢れていた頃の自分は、もういない。

 小さな村だから、すぐに評判は伝わる。よいものも悪いものも、多少の誇張と歪曲を含めて全て伝わっていく。
 彼女の噂はその中でも群を抜いて人々の関心を集めた。
 成人の儀式は村の大事な儀式だ。通常、身体能力、学力の厳しい審査を経て村の大人は成人と認識される。そうなった彼らは子供を生み、次の世代へと技術や文化を託すことが許されるのだ。
 だがそれ以前に、資格を得ることが出来ない者がいる。身体に著しい障害を得て、正常に子供を生み、育てていくことが出来ない場合などがそれにあたる。
 彼女の場合がそれだった。五体満足で産まれて、草木のごとく伸び伸びとまっすぐ育った。将来を渇望されるほどの美貌に、何人の男が恋したことか。
 しかし、彼女には決定的なものが欠けていた。すなわち、初潮が来ない。
 母は楽観的に構えていた。「私も遅い方だったから、焦ることはないわ。いずれ誰にでも来ることよ」と。しかし元服が近づくにつれ、そろそろ本当に落ち着いていられなくなったのだ。
 元服は、子供が大人になる晴れの舞台だ。「それ」を乗り越えた者と乗り越えられなかった者のコントラストが鮮やかに演出される。乗り越えられた者は晴れて成人となり、乗り越えられなかった者は死をもってその儀式に彩りを添えるのだ。
 まさか自分が「乗り越えられなかった者」になるなんて。
 やりきれなかった。
 これは敗北だ。自分の運命に負けたのだ。
 子供の頃は、儀式の意味もわからずに無邪気にながめていた。
「あなたも大人になるときは、あれに参加するのよ」
 母が興奮したように言ったのを覚えている。だから、自分は輝かしい未来を約束されているのだと、何の疑いも持っていなかった。
 死への刻限は、ひたひたとそこに迫ってきていた。

 ひそかなささやきが聞こえる。
「あの娘ももう十六なのにねえ。最近家にこもりきりで」
「ああ、あの娘。噂なんだけどさ、どうやら石女(うまずめ)らしいね。だから元服にも出られないらしい」
「へえ! それは……不憫にねえ」
 幻聴だろうか。
 否。村の噂が風に乗って、娘のもとへと届くのだ。
 いや。聞きたくない。
 娘は耳をふさぐ。けれどそれは耳鳴りのように、耳元にまとわりついてくる。
「あの赤ん坊も、生きていれば今頃元服を迎えていたろうに。惜しいことをした」
「ああ。ちょっと目をはなした隙に――か。さすがにあの子供は生きちゃいまい。獣が赤ん坊を育てられる、ってんなら別だが」
「ははは。そんな獣がいるものかい。ところで、その娘の処遇だけれど。やっぱり獣に食わせるのかい」
「さあ。今年は、あの年だからな。ひょっとしたら――」
 娘は耳をふさいだまま、崩れ落ちた。
 聞きたくなかった。自らの最期が、そんな残酷な結末だなんて。
 逃げてしまおうか。
 だが、それこそ自殺行為だ。
 人々の暮らしを支える豊かな森。春には苺や椋、秋にはえびづるが実をつける。野草や茸も豊富に生え、村の人々はそれを収穫する。また、腕のある者は弓を覚え、草食獣を射止める。
 しかし、まるで終わりが見えないほどこの森は深い。それに危険な大型の獣も徘徊する。
 森に出るには、大型獣避けの鈴や香草で焚いたにおいを身にまとい、襲われないよう準備をすることは欠かせないし、単独で行くことは絶対にない。それは「森人の掟」なのだ。事実、それを破った村人は帰ってこなかった。
 娘には森の向こうの景色の想像が出来なかった。そんな深い森に終わりなど、あるのだろうか。この森を抜けることなんて。やはり、できはしない――。
 娘はそこで諦めたように息をつき、また長い夜を迎えた。
 眠れないのはいつものことだ。

 翌朝、父は早くに出かけていった。
 普段は仲のよい両親の言い争いを、娘は部屋越しに聞いた。「長老」や「掟」という言葉が聞こえたとき、とうとう自分の処遇が決まるのだ、と直感的に思った。
 寝不足で頭はぼんやりしていたけれど、気持ちは張り詰めていた。このような妙な気持ちで一日を耐えた。こんな責め苦が続くなら、早く知ってしまったほうがましだ。
 その話し合いは早朝から夜遅くまで続いた。
 ――まだ来ない。
 外を確認するのも何十回目だろうかというときに、父は帰ってきた。
 久しぶりに見た父は、眉間に皺が寄り、疲れた表情をにじませていた。こんなに歳を取っていただろうか。父はしばらく唇をかみしめたのち、決心したように言った。
「お前は竜神さまの元へ行くのだ」
 父は最後まで語らなかった。母が全てを聞かずに卒倒したからだ。
 娘はそれを聞いても、何の感情も浮かばなかった。ただそれより、気絶した母とそれを介抱する父をぼんやりと眺めていた。
 竜神さま。
 伝説の生き物だと思っていた。生きているともいないとも、この森を守っているとも。あるいは、森の奥底で村の人を狙っているとも。永遠の命を与えられるとも、あるいは食べられてしまうとも聞いた。
 つまり、それほど不確かでぞんざいな噂に過ぎなかったのだ。今の今までは。
 その竜神さまに出会えるのだ。もし「大人」になっていたら――つつがなくみんなと一緒に過ごせていたら、武勇伝として吹聴できたのに。
 そんなことを考えている自分が、おかしかった。
 娘はかすかに震えた。やはり恐怖を感じたのかもしれなかった。


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