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森の守人


4.竜の巫女

 それはまるで大きな岩のようだ、と思った。
 竜神さま。
 それに出会った者はみんな食べられてしまうらしい。
 いや、あれに庇護された者は、永遠の命を得ることができるらしいぞ。
 色々な噂を聞いた。
 しかしどれもこれも、全て噂に過ぎないのだ。本当のところは、それに触れた者しかわからない。
 そして、娘の目の前にそれはいた。
 大きな体躯を持つ、竜だった。
 竜の実際の年齢はわからないけれど、その竜はひと目見てもかなりの老齢に達しているであろうことは理解できた。分厚い翼の皮膜は張りもなく、ところどころ穴が開き、その鱗は年輪のように年月が刻まれている。しかし、それだけにその威厳に満ちた姿に、娘は圧倒されていた。
 娘はひざまずいた。ぎこちなく、膝が崩れる。
「私の命を差し出します……。どうか、お納めを」
 竜は何も言わずに、ぬう、と首を近づけた。女は目をつぶる。その漆黒の瞳も、大きな口に隠された牙も、ぬめった鱗も、生臭いにおいも、何もかもが恐怖だった。
 竜が目の前に迫っているのが、荒い呼吸でわかった。
 食べられる。死にたくはない。逃げ出したい。一度は捨てたものと思っていた命だが、やはり死にたくはなかった。だが、逃げようにも足ががくがく震えて使い物にならない。ましてや相手はあの大きな姿に翼を持っている。逃げ切れるとは思えない。爪と牙にずたずたにされてしまいだろう。
 あわや、という時に、竜はぼそっと呟いた。
「娘よ。お前はちと勘違いをしておる」
 女は固く閉じていた瞳を開けて、竜をまじまじと見た。竜は相変わらず雄大な姿をたたえている。まだ震えは止まない。
「お前だけでなく、村の者、皆がそう思っているようだが。わしはお前を食ったりせん」
「え?」
 体中の力が抜ける。
「ただ、お前を待ち受けている運命はそれよりもつらいかもしれぬ」
 竜はどこか遠くを見るようなそぶりをしてつぶやいた。
「どういうことです」
「……いずれわかる」

 竜のねぐらは泉のほとりにあった。洞窟、というより大きなくぼみのようだと思った。竜の体はこれにぴったり収まるのだろう。この体に収まるものがあるなんて。なんだかおかしかった。
 泉は、村ほどではないにしろ、木々が途切れた空からは日の光が差し込む。
 そこから程遠くなく歩いたところに、粗末なほこらがあった。苔むして、一見すると風景と同化している。
 こんなもの、誰が作ったのかしら。娘はほこらの表面をざらりと撫でた。文字とも文様ともつかないものがあらわになる。
「私はここで、何をすれば」
「祈るのだ」
「祈る?」
「森の平穏を。村の平穏を。竜の巫女として」
 娘は戸惑った。祈る? ただそれだけ? それだけで、何が変わるとも思えなかった。
 竜はそれを見透かしたように言った。
「よいか。わしに見初められた時点で、お前はもはや普通の娘ではないのだ」
 わけがわからなかったけれど、とにかく言うとおりに、ほこらに祈りをささげる。
「それだけ……でよいのですか」
「うむ。あとは普通に生活してかまわぬ。ただ、あまり遠くには行かぬようにな。このあたりはわしを恐れて獣は寄ってこないが、万が一、ということもある」
 その言葉に、改めて竜の影響力を知った。やはり恐ろしいものなのだ。娘はこくりとうなずいた。

 竜との暮らしは想像していたよりも苦ではなかった。
 言われたとおりに毎日ほこらに出向き、祈りをささげる。あとは取り立ててすることもなく、木の実を採集し、散歩をし、泉で水浴びをする。竜が通るための大きな道をゆるゆると歩く。そして、果実が手付かずで残っていた。そういえばリスやウサギなどの小動物も見かけない。
 そして夜は竜のねぐらで寄り添うようにして眠った。硬い鱗はひんやりと冷たいことを知った。あと、竜もいびきをかくのだ。これは発見だった。
 始めのうちこそは、油断させておいていつか食われる算段だと思い込んでいた。竜が動くたびにびくりとするほど、気を張り詰めていたが、そのうちそれを止めた。襲われたところで、抵抗する手段が何一つないからだ。力も強く、空も飛べる。逃げ切れるはずなどない。
 もしかしたら本当に祈るだけでよいのかもしれない。だとしたら、楽な仕事だった。
 ただ、たまに村の暮らしが無性に思い出された。石女だとわかる前の、にぎやかなあの頃が、懐かしかった。
 このままずっとここで、この竜と二人きり。
 その事実も、彼女の心を重くさせた。
 しかし、娘が来る前は竜もひとりきりだったのだ。竜も実は、さびしかったのだろうか。


 ある暖かい日のことであった。
 娘はいつもの通り、ほこらに祈りをささげ、そして泉をぐるりと散歩する。ちょっと探検心を出して、ふらりと藪へと入る。もうこの生活にもだいぶ慣れ、森への恐怖心も和らいでいた。
 獣の臭いがする。
 と、最初は思った。
 野生の獣のような、静かな気配に女は身を硬くした。
 油断していた。本当に退屈な日常だと思い込んでいたのだ。
 気配の方向に体を向けたまま、ゆっくりと一歩ずつ後退する。決して背中を見せてはいけない。
 ふと、木の根に足を取られて体勢が崩れた。しまった、と思う間もなく女は尻餅をついた。駄目だ、やられる。
 その瞬間、それは姿を現した。
 雄雄しい男だった。申し訳程度のぼろ布を腰に巻きつけただけの、野性の男。よく焼けた肌に、たくましい胸板にはいくつもの傷が刻まれていて、まさに百戦錬磨といった様相であった。
 予想もしなかった「獣」の登場に、女はあっけに取られた。
「な……なんです。あなたは?」
「君はここで何をしている」
 静かな木立の中を吹き抜ける、さわやかな風のような声。
 村の男ではない。ひっそりと隠れるように暮らしていたあの村にはそんなタイプの男は見なかった。いるはずもなかった。
 女は戸惑いながら、自らのことを話した。竜と暮らしていること、自らの役目のこと。竜の巫女として、彼に仕えていること。
「竜だって? そのようなものが」
「ええ……私も最初は怖かったけれど、あれは優しい生き物よ」
「しかし、人はみな『聖域』で暮らしているものだと思っていたが……」
 男のつぶやきのような疑問に、女は答えられなかった。自らの体の欠陥のせいで、追い出されただなんて。
 女は結局安易な方法を選んだ。
「これが森人(もりびと)の掟なの」
「守人(もりびと)の掟だって?」
 男の表情が険しくなる。
 男は何かを考え込んでいるようだった。
 女にはその理由がわからない。ただ、色々な疑問が頭に浮かんでどんどん膨らんでいく。どうして掟のことを知っているのだろう。そして、どうして人がこんなところにいるのだろう? 森では人は生きていけないのではなかったのか。
 それが爆発しそうになったとき、女は恐る恐る声をかけた。
「あの……私も聞いていい? あなたのこと……」
「俺?」
 男は驚いたように女を見た。
「森に人が住んでるだなんて、聞いたことないわ」
 それに、村の人たちとは違う。そのたくましい外見に、女は見とれていた。見惚れていた、と言ってもよかった。
「俺、俺は――」
 男は静かに語った。物心ついたときから狼と一緒に過ごしたこと。外部の侵入から森を守っていること。「聖域」に住む人を守っていること。
 「聖域」とは私たちの村のことだろう、と女はなんとなく見当をつけた。しかし、それよりも。
「あなたは森で暮らしていたの……そして森の外の事を知っているの」
 それは女にとって衝撃的な事実だった。
 予想はしていたけれど、まさか本当に存在するとは思わなかったのだ。
「そんなに驚くことか?」
「驚くわ。それを知っていれば、私――こんなところにいなくてもよかったかもしれない」
 女は瞼を落とした。
「君は、外に出たいのか」
「出来ることなら……。でももう今は」
 女は首を振る。諦めていた。せめて竜の元に来る前に知っていれば、逃げていたかもしれない。
 しかし今は、竜との暮らしが噂ほどに悪い生活ではないことを知ってしまったのだ。ぬるま湯につかっているような、退屈で、良いとも言えないけど、悪いとも言えない暮らし。それに比べれば、何があるか想像すらつかない森の外に無理やり出て行く気なんて、起きるはずがなかった。
「そうか」
 男は考えあぐねているようだった。
 鳥の声すらしない、静かな空間が二人を支配する。
 沈黙に耐えかねて、女は言う。
「私、しゃべりすぎちゃったわ。お願い、今の話は忘れて」
 冷静に考えてみれば、こんなことは初対面の人に話すような内容ではない。つい人に会えて、浮かれてしまったのだ。
 やがて男はきりりと正面から見据え、女の手を取った。女の体温は跳ね上がった。
 彼のその手は硬く、ほんのりと温かかった。竜の鱗の硬さとはまた違う、心地いい感触だった。
「また来よう」
 彼はそれだけを言って、去っていった。藪を駆け抜ける巧みな体さばきに、やはり獣のようだ、と思った。
 長い散歩を終えたら、竜が帰ってきていた。別に帰りが遅くなったことをとがめるでもなく、ゆっくりと煙を吐く。
「嬉しそうだな」
 言われて女は、にっこりと笑った。
「ええ……今日は不思議なことが起こったの」
 女は竜のねぐらで、男のことを考えた。彼は狼と二人で暮らしているのだ。自分似たような境遇だ、とかすかに笑みが浮かぶ。
 また、逢いたい。早く逢えたらいいのに。
 胸の高鳴りが止まらなかった。


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