森の守人


9.狼

 狼は夢を見ていた。
 幼い少年が泣き叫んでいる。それを狼は必死でなだめていた。
 彼は今までの守人の誰よりも、理知的で賢かった。
 まだ泣き叫ぶ幼子を拾ったとき、狼はずいぶん小さな子だ、と思った。これで守人が務まるのだろうか、いや、生きていられるかさえ心配になるほどに。しかし、その狼の懸念とは裏腹にやがて彼はすくすくと成長していった。
 多くの子供がそうであるように、その子供も弓や槍、生活の術をすんなり覚えた。しかし、その子供に限ってはその力が群を抜いていた。
 それに加えて彼はいろいろな事に興味を持った。普通の子供は「掟」という言葉に不承不承納得して、また愚鈍な子供はその答えに満足していたようだが、彼は違った。表面上は従うふりをしながら、掟の事を、森の禁忌を探っている。
 押さえつけるのもこれまでか。
 いや、何も知らせる必要はない。これまでもそうしてきたのだ。これからも、きっとうまくいく。
 狼はそう決め付けた。長年の慣習に縛られて、判断を誤っていたことに気づいたのはそれから程なくしてのことだった。

 竜との長い長い対話を終えてねぐらに帰ってきたとき、狼は事態を悟った。
 泣き叫んでいた幼子が――いや、幼子ではない。もう立派な青年に成長したはずの男が、そこにいないのだ。
 鋭い鼻をひくつかせる。が、漂うのは香草の香りばかり。男の臭いがしない。
 しまった、と思ったがもう遅かった。気づくべきだったのだ。
 かすかに香草の煙をまとって帰ってきたとき、ほんの少し森人のテリトリーに入ってしまっただけなのだろう、と考えた。実際はそうではなかったのだ。あんなに煙を嫌っていたあの男が、テリトリーに入るわけなどないのに。
 男はあの煙で自らの体臭を消した。あの時かすかに感じた匂いは、その実験だったのだ。
 彼女が向かうべき場所は、一つしかなかった。竜のもとへ行かなければ。
 狼は力の限り駆けた。足音も優雅な身のこなしも忘れて駆ける様は、まるで稲妻のようだった。

 山のような竜の姿が見えてきた。そしてその近くに、小さな生き物がふたついることも、狼の鼻は捉えていた。間違いない、香草でカモフラージュされているけれど人間の――あの男の臭いだ。
 狼は素早くそこへ駆け寄った。
 男はかばうように一歩進み出る。その後ろに白い装束の竜の巫女が隠れた。
 ――気に入らない。男は森の守人、すなわち彼女の従者でなければならないのだ。そんな小娘の守人である必要などない。
 狼はしばらく、呼吸を整える。
 彼女は自らの失策を悔いていた。今までの守人と同じように、どうせ何もできやしないと高をくくっていたのがこのざまだ。何も知らせずに押さえつけ従わせるだけではいけなかった。森の理を教え諭し、あるべき方向へ導いてやるべきだったのだ。
 狼も若い頃は使命に燃え、そのように守人を導いていた。だが、数多の若き守人は聡い者ばかりではなかった。彼女の崇高な理念を理解しうる器の者は、ほんのわずかしかいなかったのである。彼女は失望していた。
 幾つもの長い年月を乗り越え、気の遠くなるほどの時を過ごした。守人も、もう何代目だろうか。新しい守人を拾い育てる際に施す教えは、いつしか失われていた。その結果、当代の男は自分で真実をつきとめ、森から出ようとしている。許されないことだった。それは狼のプライドをいたく傷つけた。
 狼はぐるるる、と怒気を含んだうなりをあげた。
「一つだけ聞いておくわ。あんた……その娘を連れてどうするつもりなの」
「森を出る」
 きっぱりと、しかし静かに男は宣言した。
 ――馬鹿げている。
 ああ、やっぱりこの男は愚かだった。私の理念を理解するほどの器ではなかったのだ。
「もうお前の言うとおりにはならない。森のために犠牲になるだなんて、我慢ならない。今まで何人の子供をさらってきたんだ」
 男は槍を手に構えている。いざとなったら戦う気なのだろう。彼が本気なのは、明らかだった。
 狼は咆哮をあげた。
 大ぶりの槍の一撃をかわし、その喉元へと食らいつく。
 少し懲らしめてやるだけのつもりだった。狙いは外してある。多少痛い思いをするかもしれないけれど、これで目が覚めるでしょう。そう思った瞬間、竜の巫女が声をあげた。
「あっ」
 娘が足をとられ、よろける。男はそれに一瞬気を取られた。狼はその動きに目を疑い、狙いをわずかに外した。それも――悪い方に。
 ――馬鹿!
 狼の牙は、男の喉元へ深々と突き刺さった。生温かい液体が、口内に漏れてくるのを感じる。
 声にならない、かすかな空気だけが男の口からもれた。彼がしゃべろうと懸命にもがいているが、それは無駄な努力であった。喉に穴が開いているのだ。言葉は形にならず、代わりに口からはごぼっと血の泡があふれた。
 女の顔が蒼白になる。気絶したのだろう、彼女はふらりと倒れこんだ。

 血がやけに不味い、と狼は思った。いつもは血をたぎらせてくれる肉の感触も、今日はやけに不快だった。
 その肉の感触がだんだん冷えていくのを感じる。獲物を捕らえたときと同じだと思った。そうして狼は口を開き、ゆっくり彼を地面に下ろす。
 感傷はないとは言えなかった。十数年手をかけて、一緒に生活をしてきた男を、自ら殺めたのだ。だが、狼は気丈ゆえ、そんな姿勢をちらりとも見せなかった。
「殺してしまったのか。何もそこまですることはなかろうに」
 うろたえるような竜の声に、狼は噛み付いた。
「本当に貴方は汚い」
 結局、全て私が汚れ仕事に手を下すのだ。
「人間の味方の振りをして。私は『悪い狼』貴方は『優しい竜』なんて印象を娘に植え付けて、そして新たな竜を生むその瞬間まで貴方を恨まずにその女は逝くの。なんて慈悲深い竜なのかしら、って」
 竜は答えない。まるで枯れ枝をつかむように、気絶している娘を抱いた。
「反吐が出るわ。貴方が殺すようなものなのに」
 狼の呪詛を浴びながら、巣に戻るのであろう、竜はゆるやかに翼をはためかせた。
「信じぬかもしれぬが、わしは本当に彼らを憂いていたのだ」
 ともあれ、こうして森は閉じられた。あとは、またいつものような生活に戻るだけだ。

 村から幼い乳飲み子が姿を消したのは、それから程なくしてのことだった。


【了】


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