ひだまりの道化師

the Clown of Suntrap

                  




 はっ、はっ、と短い呼吸が、狭い路地に響いた。
 家家の壁に阻まれて、路地はとても暗い。見上げると、空はとても狭く遠かった。
 少女は街をさまよっていた。おぼつかない足取りで歩みを進めながら、きょろきょろと周りを見渡し、時折足を止める。
 そこは見るもの全てが珍しく、そして興味深いものであった。日が当たらない路地の冷たい空気も。遠慮なく空にかかる洗濯物も。古びた家家の古い壁も。そんな景色を見て、触れて、感じることが出来る。そのことがとても嬉しかった。
 路地から路地へと繋ぐトンネルをくぐり抜けた時。わあっと、歓声が聞こえた。
 自然と、彼女の心ははやる。
 目指すは街の大広場であった。
 そこには、彼がいるはずだった。
 クローナの小さな大道芸人。その名はウーティス、と、そう聞いていた。


 その少年は空を舞っていた。
 かと思ったら次は、ナイフをお手玉代わりに操る。そのたびに大きな歓声が沸いた。
「はぁ……はぁ……」
 少女は駆けた。時々つまずきそうになりながら、ようやく人垣の外側にまでたどり着く。
 彼は頭一つ高い舞台の上に立っていた。それでも人垣に埋もれてしまいそうになり、少女はなんとか身をよじったりして、人の波の裂け目を探した。目の前の舞台に夢中になっている人々は、そんな彼女には気づかない。
 少年は技を巧みにこなしながら、楽しそうに笑っていた。まるで太陽のようなオレンジ色の髪が目を惹く。年はまだ十五、六といったところだろうか。背は確かに年頃の少年に比べると小さい。だが、その舞台の上では圧倒的な存在感があった。
 真剣にナイフを見つめる鋭い瞳。それがひとたび笑顔になると明るく輝く。見事な技に、屈託のない笑顔に、そのまぶしさに。すっかり心を奪われていた。
 ナイフを使ったお手玉の連続技。そして彼は最後にナイフを大きく空に投げ、落下するそれを綺麗に受け取った。ぺこりとお辞儀をすると、拍手が巻き起こる。
 間違いない。あれが、あの人がウーティスだ。
「さあお次はナイフ投げ。じゃあ、誰かに受けてもらおうかな!」
 歓声とともに、最前列に陣取った子供たちが手を挙げ、威勢のいい主張が始まる。「お前らはいつもやってるだろ」と少年はそれらを軽くいなし、観衆をぐるりと見渡した。こっちを見て、そしてふと視点を留める。
 緑色の強い瞳。その瞳が自分を見ている。
 そんな気がして、彼女は慌てて視線をそらした。気のせいだと思い込もうとしたとたん、舞台から声が降ってくる。
「じゃあ……そこのねーちゃん。金髪の、青い目の」
「へ?」
 少女は素っ頓狂な声をあげた。注目を浴び、慌てて顔を多い隠す。
「わ、わたし?」
「そう。さ、早く!」
 少年に手招きされ、彼女はおずおずと舞台に立った。
 舞台の上からは、みんなの顔が見渡せた。子供たちの期待と不満がない交ぜになった顔も。大人たちの鷹揚な顔も。一人残らず見ることが出来た。こんな経験は初めてだった。
 劇場では、観客の顔などほとんど見ることは出来なかったのだ。ただ舞台の裾からは深淵が広がっているばかりだった。観衆は暗くて静かで怖いもの。そうだとばかり思っていた。
 ここは全てが賑やかで明るくて、何もかもが大違いだった。
 足がぶるっと震える。武者震いだ、と思った。
「見ない顔だな。どこから来たの?」
 少年に問われて、言葉に詰まる。クローネ、とは言えなかった。生まれてこのかた、この街から出たことがない。それ以上に、外出する機会すらほどんど与えられなかったのだ。
 黙っていると、野次が飛んだ。
「ウーティス! お嬢さん困ってるだろ」
「うるせえよ」
 少年――ウーティスはやや乱暴に応える。とたんに笑い声が沸く。
「まあいいや。名前は?」
「……ミルス」
 人々が一瞬ざわついたように思えた。
「ミルス? ……どっかで聞いたことがあるような」
 ウーティスが小さな声でつぶやくのを、彼女は聞き逃さなかった。どきりとする。
「まあいっか! ――紹介しよう、本日のお客さん、ミールースー!!」
 彼の口上とともに、わあっと歓迎の拍手が沸いた。
 戸惑いながら少女――ミルスは、お辞儀をする。正直なところ、少年が何も聞かずに流してくれたことに安堵していた。
 それより、彼女は今の状況を掴みあぐねていた。いきなり舞台に呼ばれて、どうしてこんなことになってしまったんだろう、と困惑するほかなかった。筋書きのない舞台など、初めてだったのである。ちゃんと動けるだろうか。粗相はしないだろうか。
 そんな彼女の心配をよそに、少年は語りだした。
「じゃあまずそこに立って。はい、これは的です。今から、この的に向かって、俺がナイフを投げる! そしてそれを彼女が受けたら、凄いだろ!?」
 傷だらけの板のようなものを渡される。板には、派手な丸印が描かれていた。それが的を表す模様であることに、ようやく気づく。
 その説明を聞いて、血の気が引いていく。人々は気にしていないのか、気楽に拍手を送っている。
 少年はミルスを見据えて、こう言った。
「いいか、絶対に動くなよ」
 先ほどの笑みは消え、真剣な表情でナイフを構えている。
 そして一投。
 乾いた音を立てて、ナイフは板に刺さった。
 ミルスは動かなかった。いや、動く余裕がなかったというのが正しい。拍手が聞こえて少年がお道化たポーズをしてみせても、彼女は板を抱いたまま固まっていた。
「どうだ見たか!」
 見ると確かに、ナイフは的の中心を射抜いていた。
 少年に的を手渡して、促されるまま一緒にお辞儀をする。
 ミルスはほっとしていた。これでやっと解放される。
 だが、その期待はさらっと裏切られることになる。
「じゃあ次は、これだ!!」
 彼が掲げたのは、林檎だった。つやつやして、やや大ぶりな。ぽーんと一度、空高く放り投げてキャッチする。
 少年はニヤリとした笑みを絶やさずに、観客のどよめきに応える。
 その間彼女は、固まったままだった。
 そしてとうとう手のひらほどの小さな林檎を投げるように渡されたとき、とうとうミルスは耐えきれず「無理ですッ」と声を上げてしまった。少年の生き生きした瞳が失望の色に変わる。言ってすぐに後悔するが、もう遅い。目に涙が溜まっていく。
 こんなの無理だ。無理に決まっている。そう考えると、林檎を持つ手が自然に震えてきた。
「ミルス!」
 少年の思いも寄らぬ叱咤に、彼女はびくりと身を震わせた。
 彼は怒っているのだろうか。顔を上げる事が出来ない。
「……っ。はい」
「泣くな! 泣くんじゃない! 舞台の上では、笑っていろ!」
 ミルスは思わず顔を上げた。その言葉はミルスの頭をがつんと殴り、涙を止めた。彼女の心に渇を入れるには、充分であった。
 思わずウーティスを見つめ返す。そこには真剣な顔の少年がいた。
 心がぎゅっと鷲づかみにされたようだった。彼の声に応えたい。応えなければならない。
 ミルスは涙を拭った。
 そんなミルスの姿を見て、彼はニヤリと笑った。つられてミルスの顔にも笑みが戻った。彼は大きくうなずく。
 人々は静まり返り、舞台の動向を見守っていた。
「どうだ! 俺が信用出来るか?」
 彼は大げさな身振りをつけて、お道化たように言った。全ては客にみせるためのパフォーマンス。ミルスは、そう理解した。こんなアクシデントでさえも、彼は味方につけてみせるのだ。
 彼女はうなずいた。
「……。はいっ」
 その声は不思議とはっきり響いた。
 観客の期待と不安がない交ぜになった視線を浴びながら、ミルスは林檎を高く掲げた。もう、手の震えは収まっていた。
 ゆっくりと林檎を頭上に乗せる。
「ようし。任せろ」
 一閃。鮮やかな一投。
 さく、と音がして、そのナイフは見事に林檎を居抜いた。
 大きな声援と拍手が沸き起こり、ウーティスはその声に応えるべくポーズを決めた。笑い声も巻きおこる。
 そして彼女は――ほっとして、へたりこんでしまったのである。
「あっ!? おい!」
 これが彼らの出会い、そして初めての舞台であった。


「いやあ、悪かったな。初対面なのにあんなのに付き合わせちゃって」
 終わった後は拍手喝采。受け皿代わりの派手な帽子に次々と銭が投げ込まれる。その一つ一つにお礼を言い、ニコニコしながら、大漁だぞ、とウーティスは呟く。
 驚いたことに「そのお嬢さんに」と渡されるものもあって、ミルスは慌てふためきつつもありがたく受け取った。自然に顔がほころぶ。今までこんな嬉しいことがあっただろうか。
「あの……でもこれ、私のじゃないです」
 ミルスは受け取った銭を少年に差し出した。自分がやった事と言えば、ただ板を持って立っていただけなのだ。受け取る事など出来ない。
「何言ってんだ。これはあんたのだ。あんたの度胸と、そのかわいさに乾杯! ってくれたんだろ」
「な、何……」
「あんたさー、別嬪さんなんだからもっと笑えばいいんだよ。な?」
 かあっと頬が染まる。反応に困っておろおろしていると、ウーティスは笑い飛ばした。
「ともかくこれを俺が受け取るわけにはいかないな。それこそ、袋叩きにあっちまう」
 そこに挨拶に来たのは、彼の顔見知りらしき男だった。ウーティスは大げさに歓迎の意を表した。ミルスもつられてお辞儀をするが、二人の会話が始まると置いてけぼりにされる形になった。ミルスは困ってしまったが、会話に口を挟めるほどの社交性を持ってはいない。あれは良かっただの、あそこはいまいち、など男の評価をただ黙って聞いていた。帰ろうかと腰を浮かしかけたとき、話題がミルスの方へと移った。
「お嬢さんもよかったよー。まさか『あの』ミルスさんとコンビを組むだなんて、お前は果報者だなあウーティスよ」
 どきりとする。
 この人はミルスのことを知っている。何を言われるんだろう、と身を固くする。
 そんなことを露知らず、「何言ってんだ」とウーティスは笑い飛ばした。
「いやいや。お前もそろそろ相方が欲しい、とか何とか言ってたじゃないか。あの芝居も、なかなか堂にいったもんだよ。うん」
「あのなあ。初対面なんだよ。目に留まったから無理矢理舞台に引っ張ってきちまっただけだ」
「……え? 初対面?」
 男は絶句した。
 当然の反応だろう。初対面でナイフを受けさせ、弱気になった彼女を叱咤したあげくに難易度の高い危険な技にも付き合わせたのである。
 それでミルスはぴんと来た。この男もおひねりをくれたお客さんも、仕込みだと思い込んでいたのだ。素人相手に無茶はするまい、無茶をしているなら玄人だろう、と。
 しかしウーティスとミルスは正真正銘の初対面なのだ。あれは芝居ではなく、素の反応であった。どこにも仕込みようなどなかったのである。
「無茶なことを……。ミルスさんのキレイなお顔に傷がついたら、どうするつもりだったんだ」
「そんなことはしない」というウーティスの返答に、「答えになってない!」と男。ウーティスはこの男にやり込められていた。
「はぁ……。君がいると舞台にいると華やぐから、イイと思ってたんだけど。ウーティス君がこんな無茶をさせるなら、コンビ結成はむしろ全力で阻止するね」
 ミルスの心は波打った。
 彼らの言葉はストレートだ。彼は強い言葉を平気で口にする。ミルスにはそんなことなど出来やしない。それにミルスの周りにいるのは、本音を隠した大人たちばかりだった。容姿についての賛辞など、お世辞でしかないと思っていたのだ。
「あのなあ……別に決めたわけじゃないだろ、というか会ったばっかりで」
 ウーティスは困っている。それがどういう意図を含んでいるのか、ミルスには測りかねた。
「あ。そうだ」
 話をそらすように、ウーティスが舞台に戻っていく。そして道具入れをがさがさと漁り、何かを投げて寄越した。
 それは先ほどの林檎だった。
 落としそうになりながらも、ミルスは何とか林檎を受け取った。
「これは」
「やるよ。ナイフで傷がついたから、早めに食うんだぞ。……また来いよ」
 ミルスの顔が赤く染まる。
「はいっ! また来ます! ……あ、あの」
「何?」
「出来ることなら、それが許されるなら……またやりたい、です!」
 二人はぽかんとしている。ミルスの顔がまた赤くなった。とんでもない告白だ。自分でも、そう思った。
 たかがゲストで舞台に乗っただけの子からこんなことを言われたら、誰だって困惑するだろう。しかも散々危ない目に遭っているというのに。
 しかしミルスはそれも含めて、楽しかったと思えたのだ。

 自分の舞台で人々を幸せにすることが出来るのなら。皆を笑顔にすることが出来るのなら。
 皆の笑顔に満たされて、自分も幸せになれる気がしたのだ。




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