天つ虫といとしき亡き月の王

 天つ虫という虫をご存じですか、と娘は言いました。
「幼虫は桑の葉を食べ、そして糸を吐き、繭を作るのです。成虫は空を飛びません。飛ぶことが出来ないのです。天つ虫は、人の手のないところでは生きられないのです」
「それが、エルーナとはどのような関係があるのですか」
「エルーナもまた、天つ虫がいなければ生きることが出来なかったのです」


 このエルーナという国は別名、月の国とも言いました。
 小さな小さな国でした。月の国には月の王と、少しの国民がおりました。
 国土も武力もない国。けれど私たちには、この天つ虫によって絹をこしらえることが出来たのです。それは、月の色に輝く糸でした。
 天つ虫は不思議な虫でした。
 どこからやってきたのか、その歴史は定かではありません。天から舞い降りて来たとも伝えられています。それにより、王は月の王を名乗ったのだとも。
 天つ虫は人の手に頼らなければ生きていけません。
 いえ、さほど難しいことはありません。繭を作るためには箱に入れてやり、卵を生む時分には場所を用意してやるのです。人の手を加えないと生きていけない、弱い虫なのです。
 そんな天つ虫を、エルーナの民は育てておりました。
 絹は高いお金で売れるのです。しかし、それには重い税が課せられておりました。エルーナの民は重税に苦しみながら、それでも日々ささやかに生活していたのです。
 先代の月の王は国の民にも慕われ、国も栄えていたと聞いております。月の王の力が強いうちは、彼らの不満を和らげることができました。しかし、先代に比べて、今の王は、あまりにも弱く、私欲にまみれた男でした。くだらない理由で首を切り、ほんの少しの反論も許さない、そんな暴君に民の怒りはついに爆発したのです。
 初めは小さな声でした。
 ですがその声はあっという間に国中を駆け巡り、大きなうねりとなっていったのです。国民は立ち上がり、王と王妃は国民によって討たれ、国は血の色に染まったのです。


 話を聞いた男は戦慄し、うめき声ともつかぬ声を上げました。
 しかし男は狡猾でした。事の顛末を語る彼女がどちら側の人間か、測りかねていたのです。相槌を打ちながら、男は会話の糸口を探っておりました。
 二人は暗い小屋の中で向かい合って座っておりました。テーブルの上に置かれたランプが、かすかにあたりを照らしていました。フードを被った女性の口元ばかりが、やけに生々しく映っていました。
 元々は狩猟小屋か何かだったのでしょう、森の奥にひっそりと建つ粗末な小屋の中には、外観に似合わず小奇麗な家具が置かれていました。
 男は慎重に口を開きました。
「いや、しかし。王と王妃は討たれ、国の民は安寧を取り戻したのではないのですか? あの惨状は何なのです。家々は焼け、国の民はどこにもいない」
「ええ。ですが、月の王の娘は生きていた。国の民は、娘には何の罪もないと取り逃したのです。それが彼らの犯した過ちだったのです」


 月の王には、娘がおりました。彼女は王が討たれた瞬間を目の当たりにして、動揺しながらもすぐに身を隠しました。彼らを討った国の民は何の罪もない無害な娘だと考えたのでしょう、追いかけては来ませんでした。
 しかし彼女はただ身を隠したわけではありませんでした。
 彼女は王から言い聞かせられておりました。もしもの時があったら燃やしてしまうように、と。天つ虫は常に王家の手中にあるものでした。王は他の者に渡されるのが許せなかったのです。
 そのときはなんて身勝手な願いだと鼻で笑い、あしらっておりました。しかし、いざその現実を突きつけられ、結局は王への思いが勝ったのです。
 娘は闇に乗じて、家々に火を放ちました。国は王の娘が燃やしたのです。あちらこちらで火の手が上がり、国は大混乱に陥りました。国は幾日も燃えました。燃え続けました。
 それから、彼女はむせび泣きました。
「いとしき亡き月の王よ……なぜ私を連れていってくださらなかったの」
 王も亡く、国も亡く、天つ虫もなく。火を放ったことにより、国の民は死に、あるいは散り散りになりました。エルーナは滅びたのです。


 彼女はそう締めくくり、口を結びました。
「なんと愚かな……」
 男のうめくような言葉に、彼女は、本意ではなかったのです、と悲しげに答えました。
「王には敵がたくさんおりました。王自身もそれは気づいておりました。ですが不安を覚えるごとに、王はどんどん傍若無人と化していきました。くだらない理由で首を切り、ほんのわずかな反論も許さない。王は不安だったのです」
 先ほどから男はかすかな違和感を覚えていました。まるでそれは彼女自身が手を下したかのような口ぶりなのです。自分がしたことに言い訳をしているような、そんな口ぶりでした。
 彼女の言葉が真実だとしたら、それは余りにも悲惨な現実でした。
 彼女は男に向き直りました。
「一体私は……私たちは、何を間違えてしまったのでしょう」
 ふと、男の脳裏に欲望が掠めました。彼女がもし月の王の娘であったなら、これは好機ではないだろうかと考えたのです。
 彼女の問いに、男は慎重に答えました。
「それは、月に従ったからではないでしょうか?」
「月に?」
 その言葉は、彼女の興味を惹くには充分でした。


 先ほどから、がさがさごそごそと無数の音が家のそこここから聞こえてきていました。男にはそれが不気味な音のように感じましたが、正体はいまだにつかめません。彼女に聞くのもなんとなく憚られていました。
 エルーナからの交易が途絶え、数少ない交易相手であるエソラの国の王は幾度となく使者を遣わしました。しかし、その使者は誰一人として帰ってこなかったのです。とうとうその出番は、男に回ってきたのでした。
 まるで人を拒むかのようにひっそりと山の中に建つエルーナの国。山を越え道なき道をかき分けて、ようやくたどり着いたそこは焼け焦げた木々と荒れ果てた在りし日の国の跡でした。途方に暮れていると、彼女が現れたのです。「エルーナについて知りたいのでしょう」と彼女は言いました。男にとっては渡りに船でした。招かれるまま、男は彼女について行きました。そして、森の奥の小屋に招き入れられたのです。
「月は人を惑わす。星のように導いてもくれず、太陽のように人々を明るく包み込んでもくれない」
「貴方、面白いことをおっしゃるのね」
 張り詰めていた空気が幾分が和らぎ、男は内心ほっと息をつきました。
「さすが太陽の使者、と言ったところかしら?」
 自らの身分を言い当てられ、男は心の臓を鷲づかみにされました。何故、という男の呻くような問いに、娘は「見ればわかります」とすまし顔で答えました。
「ということは、貴女はもしや」
 月の王の娘、という言葉を男は飲み込みました。
「さあ……どうでしょうね」
 窓から月の光が差し込んで垣間見えた彼女のその顔は、あくまでもすました表情でした。


 ごそごそという音は止むことはなく、むしろ段々大きくなってきました。不安を打ち消すように、男はようやくその言葉を口にしました。
「ところで、さっきからごそごそと不快な音がしているんですが、何なんですか、これは」
「わかりませんか」
「いえ……」
「これは虫です。虫が桑の葉を食べているのです」
「ということは……まさか……」
「ふふ……どうでしょうね」
 彼女は意味ありげな笑みを浮かべました。
 男は半ば確信していました。彼女は月の王の娘なのでしょう。だからエルーナについてこれだけ精細に語る事ができ、そしてわずかに生き残った天つ虫を育てているのでしょう。
「貴女にお伺いしたい。その虫が、月の糸を吐き出す虫であるなら、それを高く買うことができるのです。貴女も、困っているのでしょう」
「それには及びません」
「どういうことです」
 ようやく本題までたどり着けたというのに、あっさりといなされて男は困惑しました。エソラの使者として、彼女と交易を再開させることが出来れば大手柄となるのです。
 ふと視界の隅にうごめくものが見えました。
 ランプのかすかな明かりがついているのにも拘らず、部屋を埋め尽くさんばかりの闇が覆っています。がさがさと耳につく音も、それは男にとって恐怖を呼びさませるものでした。彼女は口の端に微笑みを浮かべるばかりです。
 男は気味が悪くなってきました。男の野望がその不気味さに打ち負かされ、彼は帰る算段を口にしました。エソラに帰り、エルーナの状況を報告するだけでも彼の責務は果たされるのです。
 山の夜道を歩くのは自殺行為です。しかしそれよりもこの場に留まりたくない、という理由のない不安が纏わりついて離れませんでした。
「そうですか、それは残念なことです。では、私はこれにて」
 男は話を切り上げるべく腰を浮かせました。
 しかし、どうしたことでしょう、何か不可思議な力に阻まれているかのように立ち上がることが出来ません。
「どこへ行こうというのです」
 男は自分の体を見下ろして、その正体に気づきました。
 そこには無数の月の糸がありました。月の糸が、幾重にも幾重にも椅子と自分の体ごと巻きつけられているのです。そして男の体の上を、あの虫が這っているのです。月の糸を吐き出し、男をそこへ戒めながら。
 男は悲鳴を上げました。
 娘の金色の瞳がきらりと光りました。彼女の瞳の奥底に宿る狂気の色を見て、男は思い出しました。月には狂気が宿るということを。
 彼女は部屋の奥、ひときわ濃い闇に向かって手招きをしました。闇の中で蠢くそれを男は直視することが出来ませんでした。
 ふと、雲の切れ間から月の明かりが差しました。
 男の喉から、呻きともつかない声が漏れました。男は見てはいけないものを見てしまったのです。
 それは巨大な繭でした。
 まるで、男が一人すっぽりと入るぐらいの大きさのものでした。その繭の上には、それはそれは大きな、節くれだった脚が見えました。豊かな毛を蓄えた触角が、ゆるやかなうねりを見せる羽が、黒く輝く複眼が、そしてそれらを携えた体毛に覆われた胴体が、月の色を映しながら大きななりをして静かにたたずんでいたのです。静かに静かに、体を震わせながら。
 男の体から抵抗する力が抜けました。あり得ない物を目にして、彼はひらめいてしまったのです。月の光に煌くその繭の中に何が包まれているのかを。その繭に包まれながら今も脈打っている何かのことを。
 恐らく彼女は、地上のものではない、空の上から舞い降りてきたそれに魅入られていたのです。
 男の体は月の糸に覆われていきます。それが震えるたびに、天つ虫たちが呼応するように蠢いていくのです。
 使者が帰ってこなかった理由を、彼は身をもって知ることとなったのです。



初版2011.08
2013.07.27改訂

覆面作家企画5参加作品。
 テーマ「色」


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