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まだカチンコは鳴ってない

「ただいまーっ! ねぇねぇ今日の晩御飯はねぇ、お味噌汁と冷奴と豆腐ハンバーグ! 今日豆腐が安かったんだー!」
 私はずっしりとした買い物袋を振り回しそうになりながらウキウキ気分で部屋に帰った。なんたって今日は豆腐が安かったのだ。こんな単純なことで幸せになれるのはおめでたい奴だと思う。それは否定しない。
 明かりがついたままの部屋はしんとしていた。テレビの音も聞こえない。
「……あれ? ひぃくん? どこ?」
 私はビニール袋をキッチンに置くと、リビングに行って弘樹の姿を探した。いつもなら帰ってごろごろとテレビ見てるか呑んでるかしてるのに。
 床に弘樹の頭頂部が見えた。
「やだなぁそんなところで寝てるなんて。風邪」
 私は言葉を飲み込んだ。
 フローリングにごろりと突っ伏している弘樹の体が赤く染まっていたのだ。
「へっ……」
 腰を抜かしそうになりながら、私は必死で状況を把握する。
「し、し、し、死ん……で……」
 私は声に出して確かめた。
「……死んでない」
 よくよくみると、なにかがおかしい。血がやけに赤々しく、どろりとペースト状だったり、ご丁寧にもきれいなままのナイフが死体の横に添えられている。
 明らかにおかしい。これは、本当に死んでいるのだろうか。いや、違う。私をからかっている。
 私はとぼけた振りをすることにした。
「いや、待てよ。本当に死んでいないのかもしれない。ここにあるナイフで刺してみよう」
 死体は慌てて起き上がった。
「いやいや。僕死んでますって。どこからどう見ても死んでる。ね? だからお願い、刺しちゃ駄目。それ死体損壊罪」
「死体がしゃべるか!」
「はいカットぉ!」
 私たちの漫才が中断する。かちりと、映画監督が持っているようなカチンコを鳴らしたのは演出の大鳥。
「真希、もうちょっとうまくやれ。あのなあ。最愛の人が死んで、ミステリーかと思いきやコメディに変質する。そこんとこの切り替えが大事だろ」
「はっ、はい」
 真希――私のことだ。
「そうだぞ真希」
「うるさい。死体がしゃべるな」
 弘樹がケチャップまみれの頭でにやにやしている。ついむっとしてしまう。練習だから本当にやらなくてもいいのに、というと「気分の問題」だそうだ。
 私たち「演劇集団カチンコ団」は演劇作りにいそしんでいた。
 まだ台本も完成していないのに、とりあえず、締め切りを設定したらやる気も出るだろうと大鳥が一月後勝手に小さなホールを押さえてしまったのだ。おかげで私たちキャストはおおわらわでいる。まだ結末も見えていないのに、それでいいの?
「大丈夫大丈夫。週明けには……完成された原稿がお手元に届いてる……はず」
 大鳥の目が泳いでいる。こりゃ駄目だ。


 かちん、と音が鳴らされた。
「たっだいまーっ! ねぇねぇ袋振り回してたらさっきそこで豆腐一個落としちゃった! ということで今日はゴーヤなしゴーヤチャンプルーね! ねぇひぃくん、いるんでしょ?」
 私はずかずかと部屋に上がりこむ。しんとした部屋で弘樹が床に伏せているのを見つけた。
「え?」
「し……死んで……」
 よくよくみると弘樹の体にはケチャップで大きく文字が書かれていた。
「お……め……で……と……う? おめでとう?」
 頭にハテナばかり浮かぶ。
「おめでとう!」
 がばりと弘樹が立ち上がり、ケチャップまみれの体で抱きつこうとする。私はそれを必死にかわしながら聞いた。
「何の話よ?」
「俺たち、貧乏生活だけど、真希が喜んでくれるように一生懸命考えたんだ」
「ちょっと待って」
 私は頭を抱えた。
 この部分は台本がまだ出来上がってない。大鳥いわく、参考にしたいから自由にやってくれ、との事だ。
「真希……誕生日おめでとう」
「待ってよ」
 強引にキスを迫り、ソファに連れ込もうとする弘樹。手がべたべたとケチャップにまみれる。
「待ってっていってるでしょ!」
 私は弘樹に平手打ちをくらわす。想像以上に派手な音が響いて、私自身も驚いた。
 手がグーの形を作りながら、ゆっくりと呼吸する。落ち着け。落ち着け。
「私の誕生日は来月よ! 誰と間違えたの」
 弘樹はえぐっ、と声にならないうめきをあげる。
「あっ、嘘! 間違えちゃったー」
「何よ! やっぱり浮気してたのね! 豆腐に頭ぶっつけて、死んじゃえー!」
 私は豆腐で殴りつけた。ぐしゃっと嫌な音が響いて、弘樹はばったりと倒れこんだ。
「ふっふっふ。どうよ豆腐アタックは? 痛かった?」
 死んだ振りを続けている弘樹をつんつんした。しかし弘樹は動かない。
「ちょっと、ふざけてるの?」
 肩をゆさゆさ揺らす。
「ひぃくん……?」
 弘樹は反応しない。引っ張った腕が、力なく床におりた。
「し、死んでる……!」
「はいカットぉ!」
「ふう。えへへ、どお?」
 私は大鳥に笑顔を向ける。
「うんうん。だいぶ先が見えてきたって感じだな。だが真希、お前、豆腐をぶつけるときにためらったら駄目だぞ。そこはコメディじゃない。本当の殺意を持って、やらないと」
「はい」
「なあ……豆腐って意外と痛いんだな」
 弘樹がむっくりと起き上がり、ぼやいたが私たちは無視した。


 かちん、と音が鳴らされた。
「ただいまーっ! ねぇねぇ今日の晩御飯はねぇ、オンリー冷奴!」
 私は軽いビニール袋を振り回して部屋に上がりこんだ。予算の都合で切ないことになっている。けど気にしない私はきっと幸せなんだと思う。
「……あれ? ひぃくん? どこ?」
 私は弘樹の姿を探した。
 床に弘樹の頭頂部が見えた。心なしか白いものにまみれている気がするが、気のせいだろう。
「やだなぁそんなところで寝てるなんて。風邪」
 私は言葉を飲み込んだ。
 何故かケチャップにまみれている弘樹の体から、さらりとした赤い液体が流れていたのだ。
 血だ。
「へっ……」
 腰を抜かしそうになりながら、私は必死で状況を把握する。
「し、し、し、死ん……で……」
 おかしい。おかしい。
「死んで……る?」
 おかしい。こんなの、台本にない! 私は混乱しながら、芝居を壊すまいと必死に頭を回転させる。まだだ。まだカチンコは鳴ってない。
 さらさらと床を汚す赤い鮮血と、何より背中に刺さったナイフがそれを物語っていた。彼の背中はぴくりとも動かない。
「ねえ……ちょっと、ひぃくんたら。何遊んでんのよ」
 私は現実を把握していない振りをした。否、事実把握できていない。混乱していた。これは、何?
 舞台に困惑した顔を見せる振りをして、ちらちらと大鳥に視線を送る。大鳥は知らんぷりを決めこんでいるのか、こちらを見ない。
「……ねぇ」
 まだ見ない。
「ねぇ」
 まだ見ない。
「大鳥!」
「なんだ」
「どうなってんのこれ? ひぃくん……弘樹、死んでるじゃない!」
「何言ってるんだお前は。まだ終わってないぞ」
「そういう問題か!」
「はいカーットぉ!」
 かちんと、カチンコが鳴った。
 私はほっと胸を撫で下ろす。
「真希ー、まだまだだな。弘樹が死んでから俺に助けを求めるまで、劇中なのか事実なのかはっきりしないところが駄目だ」
「ううん、難しい」私はほぞをかむ。
「だけど、なんでこんなにわけわかんない台本にしたのよ」
「バッカお前、それが面白いんじゃねーか」
 弘樹はぴくりとも動かない。


 かちん、とカチンコが鳴らされた。
「あれ? ひぃくんは?」
 もろもろ省略して私は弘樹を探した。お定まりの場所に彼は伏していた。床に血だまりを作っている。
「なんで……どうしてこんなことに」
 私は頭を抱えた。弘樹の体はすっかり冷え切っていた。
 問題はそこではない。その体から流れ血だまりを作っている原因のもの、凶器であるナイフがないのだ。
「ない……ナイフがない」
 ちらりと大鳥を見る。彼はカチンコを構えていた。彼の表情は見えない。
「ねぇ大鳥! やり直し」
 私はいらだって大声をあげた。
「何言ってるんだお前は?」
 彼はカチンコを鳴らさない。
「だって、ないのよ。弘樹を刺したナイフが!」
 半狂乱になってナイフを探す。ない。ない。ソファの下にも、台所にも、どこにも。
 大鳥は何故か、笑った。
「お前、その手に持っているものはなんだ?」
「え?」
 私の手にはナイフが握られていた。鮮やかな血がつつっと滑り落ちている。
「ななななんで? なんでこんなことになってるの!」
「そりゃあ見たとおり。お前が弘樹を刺したんだ」
「そそそそんなことっ、あるわけないじゃない!」
「真希、お前知っていたな。弘樹を刺した凶器がナイフであることを」
 私の手からナイフが滑り落ちた。
 しまった。私は必死で取り繕う。
「そ、そりゃだって今までもそうだったじゃない。だから今回もナイフだって思うじゃない、普通」
「普通、な」
 私は口をつぐむ。
「さっき弘樹は豆腐に頭をぶつけて、死んだじゃないか」
「でもそれとこれとは、違うでしょう」
「ふん。じゃあ豆腐で死んだのは虚構だとしよう。しかし、弘樹が死んだのは現実だ。つまりお前は、弘樹を刺した。そして弘樹は死んだ」
 私はいやいやをするように首を振った。さっぱりわからない。だって私はやっていないのだ。いつの間にか弘樹が死んで、気づいたらナイフを握っていて。状況証拠は揃っているかもしれない。しかしそれは、それだけなのだ。
 それとも、私の知らない台本があるのかもしれない。だったとしたら、私は彼を刺したのだろうか?
 いや、そんなわけあるはずがない。何を考えているんだ。現実と台本は違うじゃないか。
「よおく思い出してみろ。お前はあの時何をした」
 私の心の隙を突くように、目の前でカチンコがぐるぐる回った。


 かちん、とカチンコが鳴った。
「はっ」
 私はいつの間にかリビングに上がりこんでいる。眠っていたようだ。
 変な夢でも見ていたのだろうか? ひどく不安になって、ゆっくり、とある場所へと視線を滑らせる。
 そこには、ケチャップと豆腐まみれになった弘樹がうつぶせになっていた。
「死んでる……?」
 ああ、さっきのシーンだ。ご丁寧にもナイフが添えられている。
 セリフが口をついて出た。否、言わされている。違う、私じゃないのに。
「いや、待てよ。本当に死んでいないのかもしれない。ここにあるナイフで刺してみよう」
 弘樹は動かない。
 私はナイフを拾う。手が止まらない。違う、私はそんなこと、望んでいない。
「刺してみよう」
 ぐさり。
「刺してみよう」
 ぐさり。
 弘樹はぴくりとも動かない。ナイフを引き抜くたびに、血があふれ出す。弘樹の体の下に血だまりを作っていく。私の手はみるみるうちに返り血に染まった。
 どうなっているの、これ?
 私は肩で息をしていた。
 私が刺した手の感触も、急速に冷えていく弘樹の体も、本物だ。現実だ。現実なんだ。
 考えろ。考えろ。このままでは、私が犯人だ。私が殺したことになってしまう。
「ねえ大鳥」
「なんだ」
「弘樹は動かなかったよ? 私が刺す前に死んでたんじゃないの」
「ふん。いいところに気づいたな。じゃあやろうか、そのテイクを」
 あざ笑うかのような大鳥の声が聞こえた。



2008.11.26

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