地獄のさたでーないと

 あたしには春なんて訪れないんじゃないか。
 冬の真っ盛りである。窓の外には音もなく雪が降っている。それを見て喜ぶような年齢はとっくに過ぎてしまった。ただ、はらはらと積もっていく雪と暗澹とした雲が立ち込めていて気分が滅入る。あたしはさあっとカーテンを閉めた。
 部屋には小さいストーブが心もとなく燃えていた。いい加減エアコンを買ってくれとも思うが、今のあたしの立場では何もいえない。締め切った部屋はじんわりと熱がこもり始めているが、それでもあたしにはぬくもりが足りなかった。
 全く外に出ない状況だからといって、あたしの格好はひどいもんだった。あったかいからと頓着なく着込んだ派手な青色のライダージャケット。その下にはくまのキャラクターが描かれたトレーナー。毛羽立った五本指の靴下。母親譲りのレッグウォーマー。分厚いめがねに、前髪はちょんまげのように縛り上げている。とても年頃の娘とは思えない。
 この格好で同級生に会ったら、とても顔をあわせられない。
 別の意味でもね、と心の中でそっと付け加える。
 きっと同級生たちは晴れの学生生活で、合コンなんかやったりして。新しい出会いなんかもあったりして、青春を謳歌しているのだろう。あたしより、二歩も三歩も先へ進んでいってしまっているのだ。
 あたしにはそれがない。あたしは浪人生なのだ。
 今度こそ、受からなければ。もう後はなかった。


 あたしは机へ向かった。
 国公立なんて目指したからいけないのだ、とぶつぶつ文句を言う。うちの経済状況も相まって、私立なんて受けられない。それはわかっているが、自分にはハードルが高すぎたのだ。しかし、諦めてなどいられない。
 今度受からなかったらお見合いさせて店を継がせる、とお父さんは言っていた。冗談だろうと思うが、まさか、という思いが駆け巡る。店を継ぐのはともかく、お見合いなんて時代錯誤だ。あたしはまだ十代なのに! まだ恋だってしていない。
 意地でも見合いなんてしてやるものか。ただそれだけの理由で大学を受けるのだ。動機が不純だと自分でも思う。これでは受からないかもしれない。思わず弱気になってしまう。
 重い気持ちで教科書と辞書を開く。机の上のライトが、無機質にそれらを照らした。
 この厳しい冬を乗り越えなければ、春は訪れないのだ。みんなが乗り越えた道だと、わかってはいるけれど。
「どうして英語なんてものが世の中にあるの〜……」
 ミミズのように紙上をのたくるアルファベットが眠気を誘った。解読できない呪文のよう。嫌がらせとしか思えない。
 ストーブが足元をじりじりと焦がしていた。
 そこから上昇気流に乗ってその熱は顔を撫で、ぼーっと温かくなる。なんだかぼんやりしてきた。お尻が寒いけど体の表側だけが熱く、出来の悪いトースターに焼かれているようだ。あたしはいつまでたっても焼きあがらない魚……そう、いつまでたっても生焼け。
 こくっ、と顔が崩れ落ち、はっと目が覚めた。そこはトースターでもなんでもなく、見慣れた机の上だった。変な夢を見ていたらしい。
 いかんいかん。このままでは眠ってしまう。
 あたしはぼやっとした頭を起こすようにぶるぶると首を振り、ラジオをつけた。たんすの上の埃をかぶったCDコンポから、雑音交じりの音声が聞こえてくる。
『スジャータ〜、スジャータ〜♪ 白い白い恋人』
 時代錯誤なCMが流れる。続いて時報が鳴った。ちょうど番組が始まるようだ。
『DJヤスのぉ、地獄のさたでーないとおおおっ!』
 派手なオープニングミュージックが鳴り響いた。おかげで幾分か目が覚める。
 DJヤスさんは朗らかに挨拶をした。いつもよりも幾分テンションが高いようだ。
 あたしはラジオが特別好きというわけではない。しかし、何だかんだいって毎週聞いていた。勉強中はテレビを見るわけにはいかないし、音楽を聴こうにもよく知らないしCDなんてほとんど持ってない。かといって静かというのも寂しい。必然的にラジオが夜のお供となる。
「さあ、今週はスペシャルウィークということで、特別な企画を用意しているわけだけれども。正解した方には、一万円ぶんのギフト券! 外れた方にも抽選で〜」
 ヤスさんはやたら張り切っていた。それだけではない、いつもと違う緊張感がスピーカーからあふれてきていた。
 そういえばスペシャルウィークなのだ。先週からずっと宣伝していたっけ。
 ヤスさんはオープニングの時間を言葉で埋めていく。調子が悪いのか、なんだか妙にとちっている。それがやけに耳について勉強に集中できない。眠くなくなったのはいいけれど、本末転倒だ。
 いつもと違うから、スペシャルウィークって好きじゃないんだよね。あたしはラジオのチャンネルを変えようと手をかけると、ヤスさんは図ったかのように勢い良くラジオの向こうで宣言した。
「さて、問題です。今日の番組はいつもと何が違うでしょうか?」
「は?」
 ぴたりと手が止まる。
 え、それってスペシャルウィークってことなんじゃないの?
 思わずラジオに向かって声をあげた。
「ああ、一つだけ言っとくと『今日はスペシャルウィーク』は却下だからね!」
 あっけなく却下された。ヤスさんはそれ以外はノーヒントと言い切る。
「ヒントといえば、皆が電話やメールしてくれることだな。みんなの答えが次の人へのヒントとなるはずだよ。……ですよね加藤さん」
「ああね」
 加藤さん――いつも茶々をいれる放送作家の人だ。まあね、とも聞こえなくもないような微妙な返事を彼はした。
「……大丈夫! 加藤さんもそう言ってるし、さあいくぞ!」
 まるで自らに聞かせるようにいいくくり、ヤスさんはさっさと進めてしまった。ジングルが流れ、コーナーの始まりを告げる。
 この番組「地獄のさたでーないと」は、その名の通り「サタデーナイト」と「地獄の沙汰も金次第」をかけて、「地獄を見るまでやる!」というコンセプトで、毎回無茶な企画を立てているのだ。
 この間はワン切り業者に一般人を装って電話をかけ、めまぐるしく変わる展開にはらはらしたものだった。あたしはもうすっかり勉強そっちのけで聞き入ってしまった。
 今回は……あたしにはよくわからない。何が無茶なんだろう。


「えーと。現在完了形は……haveと過去分詞? どこのページだっけ」
 問題集をめくり、順調に勉強している……つもりが、気になって仕方なかった。もちろんラジオのことだ。結局チャンネルは変えず、耳だけはまるでダンボのようにラジオに向かう。あたしの頭には一向に英語が入ってこない。
 先程の問題。なんという抽象的な問題だろう。こんなのが試験に出たら、正解する気がしない。あたしには全く見当もつかないけれど、果敢に電話をかけている人たちがいた。
『実は全裸?』
「うわっはははは! 全裸かー……それ、やろうと思ったんだよね! 残念! はい次の方〜」
『もしもし?』
 こんな夜中に不似合いな幼い声がラジオから聞こえた。
「もしもし、お名前を教えてください」
『ゆうた』
「ゆうたくんね、年はいくつかな?」
『十二歳』
「十二歳かー。小学生? 夜更かしだなあ」
 あれ? ヤスさん、すごく優しい。
 変だ、と思った。いつもなら小学生相手にこんな時間まで起きていることを説教をするはずなのに。どうしたんだろう。
 変だ変だ、と思っているうちにその小学生は不正解になり、電話は終わっていた。
「さあ、まだまだですねー。わかった方はこちらの番号へじゃんじゃんかけてくださいよ! 東京ゼロサン……」
 いつものようにヤスさんが電話番号をコールする。
「キュウロクゼロゼロ。こちらへかけてくださいね〜」
 あれ、いつもと違う。いつもキュウロクマルマル、と読むのに。
 緊張しているヤスさん、いつもより優しいヤスさん、読み間違えるヤスさん……。
 これはひょっとして。
 違和感はやがて形になって、あたしの脳みその中でまとまった。
「わかった!」
 ぴんときた。思わず携帯を手に取って、夢中で番号を押した。もちろん賞金につられたというのもある。うまくいけば一万円! バイトもしていないあたしには大きな額だった。
 ――いやいやいや、あたし、何やってるんだ。浪人生なのに!
 ふと我に返るがもう遅い。数回のコール音の後、電話はスタッフさんへと繋がった。
「はい関東放送、DJヤスの地獄のさたでーないとです」
 とたんに顔が真っ赤に火照る。耳につんざくような雑音が聞こえて、電話を落としそうになった。心臓が縮み上がる。
「あ、ラジオつけてますか? 電話中は消してくださいね」
 スタッフさんに言われたとおりラジオを消すと、音声がクリアになった。幾分落ち着いた。名前と年齢を聞かれたので答える。
「あ、本名でよろしいですか?」
「え?」
 ペ、ペンネームなんて考えた方がよかったのか? 確かに、全国放送だし、本名はよくないかも。でも焦れば焦るほど出てこない。どどどどうしよう。
 沈黙したら、さすがスタッフさん、場慣れているのだろう。助け舟を出してくれた。
「じゃあなんか考えといてくださいね」
 スタッフさんはさらさらとメモっている様子だ。まるで面接をされているみたいだった。少々お待ちくださいね、と声を残し、ぷつっと回線の切れる音がした。ラジオの音声がそのまま受話器から流れてくる。
「も、もしもーし?」
 しゃべってみるが、反応がないところをみると保留中なのだろう。いつもはラジオから聞いている声が受話器から聞こえてくるなんて、変な感じだった。まるで有名人の電話番号をこっそり入手してかけているみたい。変な後ろめたさを覚える。
 待たされているのは何でだろう、ひょっとしてあたしはヤスさんとしゃべるのだろうか、なんてぼんやりと妄想を膨らませていると、ぷつりと回線が繋がり、スタッフさんが無情にも宣告した。
「はい、では今しゃべっている方が終わったらスタジオに繋ぎますので」
 ええっ、と叫びそうになった。そんな、いきなり。
 その後ろではヤスさんとリスナーがクイズのやりとりをしている。心臓のばくばくが収まらない。
『ヤスさん、今日は電話番号の読み方を変えた』
『うーん、惜しい! そういうのを全部ひっくるめて何! さあ次の方』
 今の人、あたしと着眼点が同じだった。ええと、それで惜しいってことは……ここで当てないと!
 スタッフさんのアナウンスの後、ぷつっと音がした。スタジオに繋がったらしい。後ろでしゃべっていたヤスさんの声がクリアになる。
「次の方、もしもし〜?」
 うわー、あたしヤスさんとしゃべってるんだ。あたしの声が全国に流れちゃうんだ! 体中の汗腺という汗腺から、ぶわっと何かがあふれ出した。
 陽気なヤスさんの声が電話越しに聞こえる。
「……もしもし」
 自分でもびっくりするくらいくぐもった声が出てしまった。
「お名前をどうぞ〜」
 しまった。考えといて、と言われたのに何にも考えてなかった。どうしようどうしよう!
 ぽろっとこぼれた一言がこれだった。
「ほっ……炎の受験生ですっ!」
 思わず言ってしまった。本当は浪人生なのに。いや、受験生であることは間違ってはいないはずだと心の中で必死に言い訳した。
「炎の受験生さん。おー受験生なんだ。おいくつですか〜?」
「じ、じゅうきゅうです」
 一瞬スタジオに沈黙が訪れる。聞いちゃいけないことを聞いてしまったという気まずさが向こうにも伝わったようだった。この気まずい様子が電波に乗って全国に流れているんだと思うと、身震いがした。
 受験生なのに、とっくに高校卒業の年齢は突破している。つまり明らかに浪人生だということが、ペンネームと年齢でばれてしまった。そんな簡単な事に気付かない自分が恥ずかしかった。小手先で誤魔化そうとしたばっかりに。
「そうなんだ。では今年こそは合格を狙いたいね!」
 ヤスさんが必死にフォローしてくれたけれど、あたしは恥ずかしくて死にそうだった。
「さあ問題。今日の放送は、いったいいつもと何が違うでしょう!」
 あたしは決めていた答えを口にした。ひょっとしたらへんてこな答えで、笑われるかもしれない。ドキドキが最高潮に達し、頭がパンクしそうだった。
 でも、違和感は直接話をしてさらに大きくなっていた。あんなフォローをしてくれるなんて、ヤスさんらしくない。ヤスさんは、もっと、傍若無人だ。
 もう笑ってください。笑ってくれ。
「実は……ヤスさんじゃないとか?」
 おお!? と受話器の向こうでどよめきが聞こえる。なんだなんだと思っているうちにパチパチとまばらな拍手と短いファンファーレが響いた。
「はい、炎の受験生さん、正解〜!」
「ええええ!?」
 まさかそんな。当たらないと思っていたのに。
「いや〜。やってみたんですけどね。誰も気付かないんじゃないかって気がしてひやひやしてたんだよね」
「……冗談ですよね?」
 信じられない。当ててしまったことも。今しゃべっているヤスさんが――ヤスさんじゃないってことも。
 じゃあいったいあんたは誰なんだ。
「はっはっはっ。ホントなんですよ、これが」
 ヤスさん――じゃない、さっきまでヤスさんと名乗っていた人物の口調が和らいだ。
「俺は『DJヤス』の弟、北島和弘です。どうも初めまして」
「……初めまして。――じゃない、え、本当なんですよね? 本当に本当なんですよね? ヤスさんはどこいっちゃったんですか?」
「本当ですよー。そうそう、事情を説明しないといけないな。じゃあ加藤さん、どうぞ」
「いやいやいや、それはご家族の方から説明するのが筋ってもんでしょう」
 まるでヤスさんがいるような掛け合いの後、弟さんは、すっかり別人のように丁寧な口調になった。
「ヤスは本日お休みをいただきまして。その理由がね、奥さんが急に産気づいてしまって。予定日よりもまだ三週間も早いし、何より奥さんはひ弱な方だからね。さすがに大事をとってついていくことにしたわけ、ですよ。何しろ初めてのことだからね」
 声はそっくりで、それだけならきっと見分けはつかない。けれど、こうやって話を聞くとすっかり別人だ。あの電話番号を読むときのたどたどしさがなかったら、あたしだって気がつかなかっただろう。
「まあ、スペシャルウィークってことで、面白いことをしたいと考えていたらしいんだけどね。本当は双子の弟の俺が特別出演で一言だけしゃべって、さあどっちがヤスでしょう? みたいなクイズをやるつもりだったんだよ。まさか全部ヤスに成り代わるとは思っていなかったな。加藤さんが簡単に『緊急事態だし、今回はそれで行きましょう』って。無理だって俺何回も言ったのよ?」
「いやいや。たいしたもんだよ〜」
 加藤さんはあくまで楽しんでいるようだった。
 あたしは成り行きをほーっと聞いている。そんな裏話があったのか。
「まあ、俺は普段は塾の講師なんだけど、さすがに子供たちの前でしゃべるのと違うなー。いやー緊張したよ。加藤さんがアシストしてくれるって言ったのに、全然アシストしてくれないし」
「うひゃひゃ。俺がしゃべったらばれちゃうじゃん」
 下品な声で加藤さんが笑っている。
「まあねー。ヤス、一人でしゃべってそうだもんな」
 あいつの度胸には恐れ入るよ、と弟さんはうそぶいた。やっぱり兄弟でもそう思うのか。
 一息ついて、弟さんは我に返ったように言った。
「あ、そうそう。ちゃんとご挨拶しなきゃな。いつもお世話になっております〜。うちのバカ兄がね、ホントご迷惑かけて」
「いえいえ、」とあたしが言いそうになった。タッチの差で加藤さんが「い〜え」と言ってくれたので助かった。また変な恥をかくところだった。
「じゃあ、商品の一万円ぶんのギフト券は後々お送りします! 炎の受験生さん、これでおいしいもんでも食べて、力つけて、受験を乗り越えてくださいね」
「はい!」
 ここは間違いなくあたしに話しかけている。あたしは元気良く返事した。
 やった、本当にもらえるんだ。どうしよう。
 あたしはすっかり浮かれて、そのギフト券を何に使おうかと妄想を繰り返していると、突如、電波が混線したような、みーっという音が聞こえた。あたしは驚いてすぐに携帯を耳から離す。しかしその音はすぐに収まり、代わりに質の悪い音声に乗って陽気な声が響き渡った。
『おお〜〜い! もしも〜〜し!!』
 この声は、間違いない。ヤスさんだ。本物のヤスさんだ。
「なんだ、どうしたいきなり? もしもし〜?」
 弟さんもあわてた様子で答える。予想外の出来事が起こっているようだった。スタジオの混乱が伝わってくる。
『あれ? カズ? ちょっとスタッフさん、いきなりスタジオにつないだらびっくりするじゃんかよう!』
 ヤスさんがわめいている。加藤さんは笑っている。この混乱まで楽しめるなんて、たいした度胸だと思う。
「ヤス! 今ね、ちょうど正解者が出たところなんだよ。聞いてた?」
『おう、聞いた。えーと、受験生さん? だったっけ』
「はい」
 あたしは返事をした。
『受験生が電話すんなよこのやろう! 勉強しろよ〜』
 来た。茶目っ気たっぷりに暴言ともいえる正論を吐くヤスさん。これでこそヤスさんだ。あたしは笑いをこらえ切れない。
「はい……頑張ります」
『やー。でもありがとうな。どこでわかった?』
「あの、そういう傍若無人なところが、弟さんにはなくって。あれ? って思って」
『うわっはっは。失礼だなこのやろう』
 ヤスさんは笑っている。いつもラジオで聞いているやり取り。とても嬉しかった。
「おーい。ヤス、それで奥さんの状況はどう?」
『あ、そうそう。せっかく電話が繋がってることだし、この場を借りてご報告させてください!』
 ヤスさんの声のトーンが落ちて、スタジオが静かになった。咳払いが一つ聞こえた。
 ヤスさんはゆっくりと語りだした。なんだか歴史的な瞬間に、あたしも立ち会おうとしているのだ。
『えー、本日二十二時五十八分。無事、男の子が生まれました! 二千九百グラムで、少しちっちゃいけれど非常に元気のいい子です』
「おお、おめでとう」
「おめでとうございます!」
 ファンファーレとともに拍手音が流れる。
『いやー嬉しいわ。ホントに。俺、出産に立ち会ってたんだけど、ずーっとかみさんの手を握っててさ。それで、すごく長い時間、三時間ぐらいかな。俺は何にもすることがなくて、ただ祈りながらずーっと待ってたら、ようやく赤ちゃんがつるっと出てきたの! 赤ちゃんっていうくらいだから本当に赤いのな。で、そのちびっこいのが元気に泣き出してさ。感動したね、俺』
 ヤスさんの興奮が電話越しに伝わってきた。
『受験生さんもね、今はつらい時期かもしれないけれど。君のご両親もきっとこんな気持ちで君の誕生を祝ったはずだから。それを忘れないで』
 あたしは驚いた。まさかここであたしのことが出てくるとは思わなかったのだ。実感はわかなかったけど、ヤスさんのテンションに気圧されて「はい」と答えた。
「うまくまとめたと思うなよ」
 弟、カズさんからの突っ込みが飛んだ。スタジオは笑い声に包まれる。
「じゃあうまくまとまったところで、長々と引き止めて悪かったね。受験生さん、どうもありがとう」
「はい、ありがとうございました!」
 一方的にスタジオから通話は途切れ、スタッフの方と繋がった。賞品発送のための住所氏名のやりとりを終えて、ようやく通話は切れた。
 ドッキドキした。耳から火が出そうなほど顔が熱い。背中にはびっしょりと汗をかいていた。
「うわぁ……」
 あたしがあれだけしゃべってパニクってわけわからなくなったくらいだから、いきなりピンチヒッターに駆り出されたカズさんは相当のものだろう。
 興奮冷めやらぬまま、再びラジオをつけた。子供の話で盛り上がっている。
「ヤス、その子は父親似? 母親似?」
『……ガッツ石松さん似だね』
「おい、誰の子だよ!」
『もちろん俺の子に決まってるだろ!』
 ヤスさんもいつもよりテンションがあがっていた。
『でね、名前はまだ……そうだ、次回募集することにするわ』
 加藤さんが笑った。
「パーソナリティ魂だねえ。お前、ひどい名前つけられるぞぉ」


 結局あたしはこの後もラジオにかじりついていた。そうして「地獄のさたでーないと」も終わりを迎え、今は静かなBGMが夜を演出していた。さっきまで支配していた興奮も落ち着き、ようやく勉強に本腰を入れる。
 相変わらず部屋は冷え込んでいる。けれどあたしはほっこりと温かい気持ちで満たされていた。こんな気持ちになったのは久しぶりだった。ヤスさんからパワーを貰って、今なら空も飛べそうな気分だった。……気分だけだけど。
 あたしはシャープペンを握り締め、これから訪れるであろう春に思いをはせた。春には花が咲き乱れて、きっとあたしは新しい生活を手に入れるだろう。まだ見ぬ人と出会い、あたしも青春を謳歌するのだ。
 もちろん、この日の成果は上がらなかった。
 時計を見るととっくに午前三時を回っていた。長い浪人生活のせいでもうすっかり生活リズムは狂っている。ストーブは顔を真っ赤にして孤軍奮闘していたが、いよいよ雪が降り積もる外の勢いには勝てそうにない。寒いわけだ。
 ようし、明日こそ勉強するぞ。とあたしは全く無駄にテカっためがねを拭いて、床についた。
 おっと、赤ちゃんの名前も考えようかな。
 勉強は当分はかどりそうにない。




2007.04.17

競作企画「春祭り」提出。
 お題「卒業」「出会い」「新生活」「咲き乱れる」「目覚め」


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