※ 恋心に疎い嵐さんと、若干ネガティブ系バンビさん。
嵐主ですが、すれ違い多めの苦難の道のりです。



0.序

 名門はばたき学園高等部には、ちょっと有名な部活があった。立ち上げて日が浅い、二人だけの柔道部。男と女、選手一人とマネージャー一人というから、それは余計に他人の目を惹いた。
 そんな噂を本人たちは気にもせず、部活動に励んでいた。
 この日も小波美奈子はばたばたと荷物をまとめていた。ジャージ、汗拭き用のタオル、部活動用ノートにホイッスル、ストップウォッチ。柔道部マネージャー七つ道具、などとふざけて命名されていたが、実際のところ七つもない。柔道部が発足してから日も浅く、まだ大した道具など持っていないのだった。そこへ柔道着を背負った男が颯爽とやってきた。もう一人の柔道部員、不二山嵐であった。
 放課後。長い長い一日の授業の終わり、しかし不二山に言わせるとここからが本番らしい。今日も部活の始まりだ。
「押忍。小波、部活行こ」
「おっす! 今日もがんばろうぞー!」
 握りこぶしを作っておどけてみせると、不二山からは、誰だよそれ、と笑顔がこぼれる。
 二人にとってこの時間はかけがえのない時間だった。願わくばそんな日常が続けばいいと思っていたけれど、その意味合いが少しずつ異なってくるなんて、このときは思いもしなかったのである。




1.カタオモイ


「じゃあ行ってくる」
「はい! 行ってらっしゃい!」
 用意スタート、の声とともにカチリとストップウォッチのスイッチを押す。それと同時に走っていく背中を美奈子は見送った。同級生と比べても、広くてたくましい背中。短く刈り上げられた襟足。美奈子にはそれがなぜだかとてもまぶしく見える。
 彼――不二山嵐は柔道部の主将。美奈子は柔道部のマネージャー。彼は柔道に夢中で、自分はそれを見ているのが好きで。彼の一生懸命さに打たれてマネージャーを引き受けたのだ。
 彼の役に立てるのは嬉しい。最初はそれこそ右も左もわからなかったけれど、ようやくマネージャーとしての仕事も板についてきた、と思う。頼りにしてくれている、とも思う。けれど、たまに空しくなる。
 他の同級生よりも距離は近いのかもしれない。けれど自分はあくまでただの同級生でただのマネージャーなのだ。それ以上でもそれ以下でもない。ましてやクラスの一部の人間が噂するようなことなど、何もなかった。
 それでも二人きりの部活の時は、手探りで練習を手伝ったり、彼と直接接する機会がたくさんあった。二年生になり後輩の新名が入部して、彼との話題はほとんどが新名のことになった。組める相手ができたことが、そして指導する後輩ができたことが嬉しくてしょうがないらしい。だが美奈子としては少し複雑だった。
「柔道に恋してる」と語った通り、彼は日々部活に打ち込んでいる。美奈子はその姿を見守り、こうやって走り込みに行く背中を見送るだけ。
 一方的な片思い。
 その事実が胸に重くのしかかる。
「……はあ」
 柔道が恋人じゃあ、勝てっこない。その相手が人であったら、まだ諦めがついたのに。
 ため息が美奈子の口から零れ落ちた。


「美奈子さ〜ん。何浮かない顔してんの」
 不意に後ろから声をかけられ、美奈子はどきっとした。
 この陽気な声は聞き間違えようもない。柔道部の後輩、新名旬平。慌てて美奈子はマネージャーモードに切り替える。ため息などついている場合ではない。
「あ、新名くんやっと来た! じゃあストレッチからね。それが終わったら外周五周」
 新名に今の気持ちを悟られた気がしてひやりとしたが、敢えて聞かなかった振りをして指示を出す。新名はそれが聞こえているのかいないのか、何故かにやにやしている。
 またおしゃべりが始まるのだろうか。調子のいいことを言っていることも多いが、彼の話は人を惹きつける。そんな新名のおしゃべりにうまくのせられて時間がつぶれてしまうこともままあり、よく不二山から注意を受けている。今日こそは練習に参加してもらわないといけない。
「あのさー」
「……おっと、その手には乗らぬ! はい両手を上に伸ばして〜」
「美奈子さん、ひょっとして嵐さんのこと好きでしょ」
 突然の新名からの指摘に呼吸が止まるかと思った。
「な、何!?」
 声がひっくり返る。新名は我が意を得たりとばかりに微笑んだ。すっかり主導権が奪われていることに美奈子は気づかない。新名はぺらぺらとしゃべりだす。
「今の嵐さんを見送る姿がマジ恋する乙女! みたいな? 最近綺麗になったと思ったら、やっぱ恋してるから?」
「新名くん」
「嵐さんって、男の俺から見てもかっこいいって思うもんね。女の子ってやっぱ、スポーツできる男のほうが好き?」
「……やめてよ!」
 自分でもはっとするくらい大きな声が出ていたが、それにもっと驚いていたのは新名だった。
「……え、マジで?」
 真剣な表情でそうつぶやく。
 美奈子はしまった、と思った。これじゃあ肯定しているのと同じ。この余裕のなさが、今の美奈子の気持ちそのものだった。それを聡い新名が気づかないはずがない。
「ああ新名くん、その……大きな声出しちゃってごめんね」
「いやそれはいいんだけど、全然気にしてないし」と新名はすかさずフォローするが、やはり話は本題に戻る。
「あ、あ〜ひょっとして当てちゃった? 俺スゲくね?」
 やはり人の気持ちに敏感な男の目はごまかせない。
 だが、かといって自らの気持ちに嘘はつけない。
「ええと……ごめんね。忘れて」
「えぇー、いいじゃん! 別に隠すことでもなくね? 俺でよかったら相談乗るぜ」
 新名はその端正な顔でにっこりとほほ笑んだが、美奈子は穏やかではない。
 最近ようやく真面目に練習に来てくれるようになったけれど、彼はいわゆる「チャラ男」なのだ。自分も街中でナンパされたことを思い出す。どこまで本気なのか、彼の軽口からはうかがい知れない。ひょっとしたらからかわれているだけかもしれない。こんな風にべた褒めしながら女の子に近づいていくようなタイプとは、今まで出会ったことがなかった。それを軽くあしらえるほどの経験値は美奈子にはないのである。ましてや秘密を握られてしまっては余計に。
 だから、美奈子は後ろから近付いてきた影に気づかなかった。


「何してんだ」
 一周を終えてきた不二山が、新名の腕を掴んだ。そしてそのままひねりあげる。
 油断していたのは美奈子だけではない。新名もだった。不二山の隙のない動きと鍛え上げられた力によって、簡単に腕が極まる。
「嵐さ〜ん、いたた! 痛いって〜」
「ああっ、不二山くんお帰り」
 美奈子は慌ててタイムを確認し、読み上げる。一周の時間を聞き流しながら、不二山はなお新名の腕を締め上げた。新名は「いててて! 痛いっすよ〜嵐さ〜ん」と情けない声を上げる。
「おまえと新名が言い争ってる声が聞こえた」
「争ってないですよ〜。ちょっと親密な話をしてただけですー。ね! 美奈子さん」
「え! ……あっ、そうそう、そうなのよ〜」
「ププッ……なにそのオカマ口調っ!」
 美奈子は新名に調子を合わせてごまかした。少し違う気もしたが、本当のことを言ったら、話の中身まで聞かれることになる。それだけは避けたかった。不二山がすっと目を細めていたが、口を挟まないうちにさっさと再開することにする。
「ごめんねペース乱しちゃって。大丈夫。じゃあはい、新名くんも一周遅れで一緒にスタートしよう」
 一周五分十秒。不二山の普段のペースより随分早い。恐らく校舎の角を曲がったところで二人を見つけ、何事かとペースを上げて来たのだろう。それにあと四周の予定だったのだが、足を止めさせてしまった。
 美奈子の指示によって、不二山は新名の腕を離した。あっさり拘束が解かれ、新名がストレッチを始める。いつもに比べて随分素直に従ったほうだ。この会話を続けて不二山に絞られるくらいなら、外周の方がマシだという判断なのだろう。ぐるんぐるん、と手首足首を雑に回して、不二山の隣に並ぶ。
「はい、準備オッケー」
「じゃあ、用意」
 用意スタート、と言おうとしたところで横槍が入った。
「小波」
「はい」
「新名がまたなんか言ってきたら、俺に言えよ」
 不二山にぽん、と肩を叩かれる。
 思わぬ言葉に、美奈子は反応が遅れた。
「えっ……」
「よし、スタート!」
 不二山はそう言い、自らスタートを切った。美奈子は動揺したまま、慌ててストップウォッチのスイッチを押す。
 新名は「ちょっ……そんな、不意打ち卑怯っすよ!」などとわめきながら慌ててついていく。

 二人の背中が遠くなり、校舎の角を曲がり見えなくなって、美奈子はようやく息を吐いた。
 不意打ちは卑怯だ。美奈子もそう言いたかった。
 そんな風に唐突に優しくされたら、ますます好きになってしまう。彼は柔道に恋しているということを知っているのに。



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