2.シツレン

 新名が入部したのを皮切りに、柔道部も人が増えた。不二山の地道なアプローチだけではなく、新名の人脈によるところが大きいんじゃないか、と美奈子は考えていた。そういう意味でも不二山の目は正しかったわけだ。
「この前さ、新名と何話してたんだ」
 部活の終わりごろ。部員たちをあらかた帰してから二人は後始末をしていた。部室の窓を閉め、道具の所在をチェックしていると不二山から声をかけられる。この間、と考えをめぐらせて、ようやくそれに思い至る。
「ああ! あ〜……えっと、うん、あれは……ひ・み・つ」
 不二山の顔が険しくなる。笑いにして逃げようとする作戦は失敗したらしい。つい「ごめん」と謝る。
「いーけど。なんか深刻な顔してたから」
 気にかけてくれたようで、少し嬉しかった。だから勇み足をする気になったのかもしれない。
「好きな人を言い当てられちゃってね」
「ふうん」と言った彼の声は、気のないように聞こえた。
「誰?」
 だから不二山のストレートな問いには仰天した。
 いや、しかし。これはチャンスなのかもしれない。もしかしたら、思いが伝わるかもしれない。こんなに自分のことを気にしてくれている。自分が一番近くにいて、クラスの中でも一番よくしゃべっていると思う。うぬぼれてなければ、そう思う。
 だから美奈子は一歩踏み出した。もっと近づきたかった。思いを、ぶつけたかった。
「ふ、不二山くんだよ!」
「……俺?」
 その反応は美奈子が想像していたものと違った。


 沈黙が場を支配している。
 しいんと静まりかえる柔道場の中、ではなくその入り口の前。二人の男女が向かい合って立っていた。柔道部主将不二山と、そのマネージャー、小波美奈子。
 しばらく逡巡したのち、不二山はゆっくりと口を開いた。
「わりぃ。俺……そういうの、わかんねぇ」
 それは死刑宣告だった。
「そ、そう……だよね。ううん、気にしないで」
 無理やり笑顔を作る。うまく笑えたのかどうかわからないが、不二山がそれを見て奇妙な顔をしたように見えた。美奈子はいたたまれなくて、踵を返す。
「じゃあ私、先に帰るから。本当に気にしないで」
 呼吸が苦しい。うまく息継ぎができない。けれどここにいるよりはましだ。不自由な体を動かして、美奈子は全力で駆けた。大声で叫びだしてしまいたかった。泣き出してしまえば、楽になれただろうか。
 やってしまった。
 うまくいけば不二山と恋仲になれるかも、とどこか甘く考えていた。その考えは簡単に打ち砕かれた。現実は甘くなどなかったのである。
 美奈子は帰宅するなり自室のベッドにこもった。一人になって、ようやく安心したのか涙が頬を濡らした。そうして顔を枕にうずめたまま、声を殺して泣いた。


 翌朝、美奈子はひどい顔をしていた。
 学校へは行かなければならない。そう、失恋したとしても不二山とは毎日顔を合わせることに変わりはない。同じクラスだし、同じ部活だからだ。そんなことに思い至らないくらい、美奈子は子供だった。
「目が腫れてるじゃないの」との母親からの声にも、美奈子は曖昧に答えた。
「今日は休む?」
「……行く」
 こんなひどい顔だけれど、隠しようがなかった。誰かに何か言われるだろうか。
 とぼとぼと通学路を歩く。いつもは知った背中を見つけると駆け寄っておしゃべりを始めるけれど、今日はとてもそんな気になれなかった。目立たないようにクラスに入り、身を小さくして席に着く。誰とも、しゃべりたくない。
 つい癖で彼の姿を探してしまう。けれど、すぐにそのことを後悔する。彼の姿を見ても、つらいだけだというのに。
 さらに間の悪いことに、不二山と目があってしまった。美奈子はすぐに目をそらすが、不二山は近寄ってきた。いつになく堅い表情をしていることに、美奈子は気づかない。
「押忍。おはよ」
「……おはよう」
「おまえ、昨日鍵かけるの忘れてっただろ」
「そう……だね、ごめん」
「気をつけろよ。ほらこれ、鍵」
「……うん」
 ひどい顔を見られたくなくて、美奈子は下を向いたまま鍵を受け取る。不二山はなおも何か言いたそうにしていたが、諦めたのか自分の席に戻っていった。

 授業の時間中、美奈子はほとんどノートを見る振りをしてうつむいていた。内容などほとんど頭に入ってこなかった。今日は氷室先生の数学がなくてよかった、と思う。休み時間ごとに仲の良いクラスメイトが心配して声をかけてくれたけれど、美奈子はそれに満足に答えられず「ありがとう」「大丈夫」「ごめんね」で乗り切った。うかつに失恋したなどと言えなかった。昨日あれだけ泣いたというのに、また涙がにじみそうになる。
 予鈴が鳴る。先生が授業の終わりの挨拶をし、生徒たちは思い思いのところに散らばっていく。教室の中がまばらになり、美奈子はようやくお昼になっていることに気づく。
 何も食べる気力はないけれど、おなかはすいているような気がする。お昼を用意してこなかったので、財布を片手に購買へとぼとぼと歩いた。
 購買は活気を見せていた。飢えた生徒たちが昼食を求めて、争うようにパンを買っていく。
 美奈子は少し離れたところからそれをぼんやりと眺めていた。人垣に入っていくような気力など残っていない。
 それに、人垣の中で我先にとパンを手に取る不二山の姿がいやでも目に入った。無造作な明るい色のスポーツ刈りの頭に、「おばちゃん! あとこれも」と良く通る少しハスキーな声。こんなことがあった後でも、つい目で追ってしまう。こんなに苦しいのに。
 やっぱり引き返そう。
「あっれー、アンタが購買に来るなんて珍しい。寝坊しちゃった?」
 そう決意したとたん、後ろから声をかけられる。後輩の新名だった。手には、はばたきミックスジュースが握られている。
「……うん、ちょっとね」
「アンタでもそんな事あるんだ? じゃあ早く買いにいかないと。ボーっとしてるとなくなっちゃうぜ?」
「うん……でもいいや。大丈夫」
 そんなことより、早くこの場を離れたかった。新名との会話をそこそこに、じゃあね、と踵を返すと「よっ」と声をかけられた。一歩遅かった、と美奈子は肩を落とす。柔道部員が二人集まっているところに寄ってこないはずがないのだ。主将の不二山が。
「嵐さん、買いすぎ……」
「しょーがねーだろ、腹へってんだから。ほら、おまえはどれにする」
 両腕に抱え込まれた山ほどのパンを突きつけられて、美奈子は困惑した。
 わけがわからなかった。頼んだ覚えもない。きょとんとしていると「おまえには世話になっているからな」と一言。
「なんだ、そういうこと? じゃあ俺からは、はばたきミックスジュースおごっちゃうぜ」
 新名が颯爽と新しいジュースを手にして戻ってくる。
「ええっ、ちょっと待って、いいのに」
「いーのいーの! 好意は素直に受け取っておくもんだぜ? じゃ、行きましょうか」
 新名に背中を押され、美奈子は仕方なしに歩き出す。なぜか流されるように柔道部のメンバーでお昼を食べることになってしまった。

 屋上は人でにぎわっていた。固辞したにもかかわらず、不二山からはグローブ型のクリームパンを半ば無理やり押し付けられた。まだほんのり温かい。
「あっそれ、すぐ売切れちゃう幻のパンってやつ! 俺、初めて見た」
「そっか? 俺時々買ってるぞ」
 新名から幻のパンを奪取する秘訣を問われて、不二山はトレーニングだ、などと無茶なことを平気で言ってのけている。普段なら美奈子も笑いながら会話に加わるのだが、今日はとてもそんな気になれなかった。
 のろのろした動きで、クリームパンを一口かじる。あったかい、と思う。あったかくて、とろっとした感触。これはきっとおいしいのだ、と思う。けれど肝心の味覚がどこかに行ってしまったようだった。クリームパンを食べているはずなのに、味がよくわからない。
「美奈子さ〜ん、大丈夫?」
「……うん」
「大丈夫じゃないでしょ、それ。何かあった?」
「……ううん」
 ゆるゆると首を振ると、新名は諦めたのかそれ以上追求してこなかった。しばらく沈黙が訪れる。賑やかな柔道部にしては珍しい。当事者の不二山も自ら語りだすようなことはせず、黙々とパンをかじる。
 空気を察した新名が、当たり障りなく不二山に話を振る。不二山もそれに適当に答えるが会話も途切れがちになる。かといって美奈子が会話に入っていく気力もない。空気を悪くしているのは自分だった。自分はここにいるべきでないのだ。一人になりたい。
 まだ半分ほど残っているパンを袋にしまう。ジュースもそれほど口をつけていない。
「ごめんね。先行くね」
 ふらりと美奈子は立ち上がる。いたたまれなかった。



 ふわふわとおぼつかない足取りで歩いていくマネージャーを、柔道部の男たちは声もなく見送った。
「……美奈子さん何かあったんすかね」
「ああ」
「嵐さん、何か知ってますか」
 その問いには沈黙で答える。
 異性にしては話しやすいやつ。女にしとくのはもったいねぇ。そして快活で、頼りになるマネージャー。美奈子のことをそんな風に思っていた。誰かに彼女を紹介するなら「同級生」「うちのマネージャー」「友達」と答えていただろう。
 だが昨日の部活終わり、美奈子に好きだと言われてからずっと、妙なもやもやが体を支配していた。いや、本当はずっと前からそれを感じていたのかもしれない。けれど不二山はそれを無視していた。気の緩み。怠慢。心の揺らぎは柔道の妨げにしかならない。そう思っていたからだ。
 だから彼女の言葉を「わかんねぇ」の一言で退けた。彼女は「気にしないで」と言った。それですべてが収まった、はずだった。
 だが不二山の予想は外れた。翌朝、明らかに泣きはらした顔で現れた美奈子を見て、不二山は少なからず動揺した。快活な調子で、変な口調を使い分け、場を和ませる。そんないつもの調子に戻るだろうと勝手に思い込んでいて、あんな風にふさぎ込んでしまうなんてことは露ほども頭になかった。だが美奈子は静かに顔を伏せたまま、周りに注意を払うこともなく動こうとしない。その姿を見ていると、胸が苦しくなる。
 自分が彼女をそうさせたのだろうか。
 不二山はぐしゃぐしゃと頭をかく。なんとかいつも通りの日常を取り戻すべく声をかけてみたけれど、今のところ全て不発に終わっていた。自分はどうすべきなのだろうか。いつも通りの関係を取り戻すには、どうしたらいいのだろうか。
「今日の部活、おまえ出れるか」
「ウッス。……美奈子さんは来るんすかね」
「わかんねー。でもあの調子だから、どっちにしろ今日は当てにできねぇ」
 今日どころか、ひょっとしたら辞めてしまうかもしれない。嫌な想像が一瞬頭に浮かび、それを振り払った。


 気落ちしていることに加え、昼ごはんもろくに食べられなかった。頭にもやがかかったようだった。
 放課後、不二山がずかずかと歩み寄ってきて、美奈子の前に立ちはだかる。
「小波。……部活、来れるか」
「……行きます」
 美奈子は下を向いたまま、はっきりと答えた。
 身も心も消耗していたけれど、これは意地だった。このことと部活は分けて考えなければならない。部活に一生懸命な不二山の背中を見ているからこそ、このような理由で休むのはなんだかとても恥ずかしいことのように思えた。
「そっか」
 不二山はうなずくと、美奈子に手を差し出した。
「ほら、鞄貸せ」
「えっ! いいよ!」
 固辞したにもかかわらず、不二山は鞄をむしり取った。そして肩に背負い歩き出す。隣を歩くのはためらわれ、少し離れてついていく。
 いつもだったら、ふざけながら鞄を奪い返して、そしてほのかに嬉しい思いを抱えながら隣を歩いたのだ。美奈子が抱えていた思いは、ひょっとして不二山も同じかもしれないとうぬぼれていた。だが、そうではなかった。
 せっかく自分で立てた誓いは早くもしぼみかけていた。


 部員が増えるにつれて、柔道部の設備も増えた。部室の窓を開け、スポーツドリンクを作り、今日のメニュー表の確認をする。部員たちは思い思いに準備運動を始めていて、美奈子はその部室の片隅に座る。部員が増え、マネージャーが部員と直接接することも少なくなった。今まで準備運動の手伝いなど、本来ならマネージャーがやるべきことでないことも人手不足だからと手伝っていたのだ。今となってはそれも楽しかった、と思い返す。なんだかずいぶん遠い日の記憶のようだった。
 割り切るには、柔道部は思い出があふれすぎていた。昨日までは確かに厳しくも楽しい、充実した柔道部生活を送っていた。だが、同じように見える世界は一変していた。昨日まではさも当たり前のような顔をして彼の隣についていたけれど、それは自分の場所ではないということに気づいてしまった。気づかされてしまった。
 あんな不用意な一言さえなければ、今までと同じように接していられたのに。
 いや、違う。思いを伝えたことは後悔していない。自分は前に進みたかったのだ。もっと彼の傍へ近づきたかった。それは叶えられなかったけれど。仕方ない。仕方ないのだ。
「美奈子さん、どうしたの」
 座ったまま顔を伏せている美奈子の様子に気づいたのは、新名だった。
「うん……ごめん、ちょっと」
 美奈子は顔を伏せたまま、手で隠すようにしてそっと立ち上がる。こんな顔、誰にも見られたくなかった。部室を抜けて顔を洗って、すぐ戻ってくるだけ。そっと立ち上がると、新名がエスコートするようにして肩に手を添える。
「大丈夫? アンタ――」
「触んな!」
 そこへ怒号が飛んできて、場はしいんと静まりかえった。ずかずかと不二山が近づいてくる。
「俺が行く。新名は練習の続き」
 彼はそう言い、美奈子を連れて部室の外に出た。美奈子は呆然としたが、不二山に押し切られるようにして連れ立って歩いた。断る権利など与えられぬまま。

 なぜこのような事になったのだろう。
 一人でそっと部室を抜け出して、顔を洗って、また何食わぬ顔をして戻ってくるだけ。それだけのつもりだった。それなのになぜか不二山と部室の外で肩を並べて座っている。よりにもよって、一番見つかりたくない人に見つかってしまった。彼は「話があれば俺が聞く」と言ったけれど、美奈子には昨日放った爆弾で精いっぱいだった。それが退けられてしまった今、残弾なんてあるわけがない。あるとすれば悲しみや後悔の念ばかりだ。そんなの本人にぶつけられるわけがない。頭の中がぐるぐるしたまま、気まずい場に耐える。
「なあ。今日のおまえ、ずっと変だ。……ひょっとして、昨日のこと」
 美奈子は顔を伏せたまま「不二山くんは気にしなくていいんだ」とだけ答えた。平気だとも大丈夫だとも、言えなかった。
「そう言われても、気になる。おまえがそんな顔してんのを見るのがつれぇ」
 不覚にも、胸がうずいた。まだ心配してもらえるんだと思わずにはいられない。
「いつも通りに戻れねぇの」
 不二山はぽつりと何気ない言葉をこぼした。
 それは彼の嘘のない言葉だったのだろう。好意的にとらえれば、今までの関係を続けたいという言葉だったのだろう。でもそれで気づいてしまった。自覚させられてしまった。彼は自分のことを、なんとも思っていないのだということに。
 ぼろぼろと涙をこぼす美奈子を、彼はあっけにとられた顔で見つめていた。
「どうした」
「なんでも……ない」
 なんでもないわけがない。だが決壊した思いが簡単に押しとどめられるはずもなく、美奈子は子供みたいに泣いた。
 そしてそんな自分をどこか冷静な気持ちで見ていた。何やってるんだろう。そんなこと、わかりきっていたというのに。
「顔……洗ってくる」
 美奈子はのろのろと立ち上がった。
 ぬぐってもぬぐっても、瞳からは涙があふれる。この場にとどまりたくなくて、美奈子は前をろくに見ずに歩き出した。
 不二山はそんな美奈子を呆然と見送った。声をかけることもできずに。


 誰にも会いたくなかったから、人気の少ない場所を選んで歩く。校庭の片隅にある水道までたどり着く途中で、人とぶつかりそうになった。ろくに確認もせず謝ってそそくさと立ち去ろうとするが、向こうから声をかけられる。
「……よう、どうしたよ」
 聞き覚えのある低い声。見上げると、髪をオールバックに固めた大男が立っていた。幼馴染の桜井琥一だった。
「うわ、琥一くん」
 琥一は美奈子のぐしゃぐしゃになった顔を見るや否や、琥一の目つきがさっと鋭くなる。
「どうした、誰にやられた」
「琥一くん、違う、違うよ。なんでもない」
「あの柔道バカか」
 図星をつかれてぎょっとする。琥一は小さい頃とはすっかり変わってしまって、登下校時に時々話す以外にはあまり接点もなかった。不二山が琥一の体格を見て「柔道に向いてる」などというから勧誘をしたことがあるけれど、すげなく断られてそれっきり。本当にそれだけ。何を知っているはずもないのだけれど。
「なんで……」
「やっぱりそうか」
 不思議に思っていると、琥一は言いづらそうに「オマエらは有名だからよ」と一言。実際に即していない変なあだ名がつけられているのは美奈子も把握していた。「夫婦」だとか「嫁」とか、不二山も特に否定しないからクラスの一部からはそのあだ名で定着しつつあるし、自分もその気になっていたことに改めて気づかされる。琥一もきっと何か誤解しているのだろう。
「うん、でも大丈夫だから。ごめんね、ありがとう」
 そうして彼に背を向け、ふらふらと水道まで向かう。蛇口を上向きにしたまま水を流し、ざぶざぶと顔を水につける。涙は流れていくが、後から後からこみあげてくるものは途切れない。
「……おい、あんまそうやってっと窒息すんぞ」
 顔を上げると琥一が水道の縁に腰掛けていた。とっくに行ってしまったと思っていたのに、待っていてくれたらしい。
「無理には聞かねぇけどよ、話すことで楽になるもんもあんだろ」
 美奈子は驚いて、琥一をまじまじと見つめた。彼は照れくさそうに顔をそむける。そこには小さい頃のままの優しい「お兄ちゃん」がいた。
「琥一くんは優しいなぁ」と言うと、「ウルセー」と頬をかく。そのしぐさまで昔のままで、美奈子は少し嬉しくなる。そう、彼はいつだって二人の「お兄ちゃん」だった。琉夏くんと三人で迷子になったときも、と危うく昔の思い出に浸りそうになる。だからつい、本音を吐き出す気になったのかもしれない。
 美奈子はなるべく遠くを見ながらつぶやいた。
「振られちゃった」
「ハァ? ……そうかよ」
「うん。私は好きだったんだけど、向こうにとってはそうじゃなかった。ただの同級生で……部活仲間。私のことは何とも思っていなかったんだな、って」
 言いながら、声が途切れがちになる。止まったと思っていた涙が、再びあふれる。
「そうだよね……わ、私、女の子っぽくないし」
「そうかよ」
「そうだよ。もっとおしとやかで、可愛くて、女の子っぽかったらよかったのかもしれないけど――やっぱりこういうの、向いてなかったんだ、きっと」
「ハァ……そうかよ」
 琥一くんがわざとらしくため息をついた。こんな愚痴を聞かせて嫌がられてしまったのかもしれない。
「……話聞いてくれてありがとね。おかげで、吹っ切れそう」
 最後は声にならなかった。美奈子はしばらく顔を押さえたまま動きを止めた。
 どこがだよ、と隣でつぶやく声がする。強がりだと言われてしまえば否定できない。けれど言葉にしてしまえば、本当になるかもしれない。そう思っているけれど、今の美奈子にはまだまだ時間が必要だった。
「黙って泣いとけ」
「ううっ……ひどいなあ……こういう、ときは、泣くなって言うもん、でしょ」
「おう、泣け泣け」
 琥一はかすかに笑っていた。いじめっこだ、と美奈子は思う。けれどその笑顔に少し救われてもいた。
「オマエはよ、昔から泣き虫だったろ」
「そんな昔のこと……琥一くんだって、ぐすっ、よく泣いてたくせに」
「アァ!?」
 琥一の一喝を受けて、泣いているはずなのに、つい笑みがこぼれる。
「ふふっ、昔はよく、琥一くんを泣かしてたもんね」
「アァ? 言うじゃねぇか、テメェ」


 涙をぬぐいながら笑う美奈子と、それに穏やかにつきあう琥一が水道の縁で腰を掛けている光景は奇妙なものであったに違いない。
 少なくとも、遅いからとしびれを切らして迎えに来た不二山が眉をひそめる程度には。
 不二山が近づいてきたことにいち早く気づいたのは琥一だった。琥一は彼をにらみつけたまま威圧的に立ち上がる。張りつめた空気を感じて、美奈子もつられて立ち上がった。
「部活中だろ」
「アァ!? テメェ、こいつ泣かしといて一番先に言う台詞がそれか」
「おまえには関係ねぇ」
 不二山がひるむことなく答えると、琥一の目つきは一層鋭くなる。一触即発、といったところに美奈子が割って入り、頭を下げた。
「ごめんごめん。遅くなってすいませんでした。今行きます」
 涙をジャージの裾でぬぐい、不二山を見る。なんだかずいぶん久しぶりに彼と視線を合わせたような気がする。あの時から世界は一変してしまったように見えたけれど、その中でも彼は何一つ変わっていないように思えた。そう、彼は柔道で強くなることのみを追い求めている。そのまじりっ気のない瞳に魅入られて、そして少し悲しくなる。
 だが琥一は不二山をにらみつけたまま、怒りを隠そうともしない。
「小波、こんな部活なんざ辞めちまえ。いくらオマエが頑張ったところで、オマエを大事にしてくれない部活なんて何の価値もねェ」
「こ、琥一くん」
 ぐさりとくる。これには不二山にも効いたようで、彼の瞳が揺らぐのを美奈子は初めて目撃した。
 せっかく涙が止まったのに、またじわりと溢れそうになる。
「何とか言ったらどうだ」
 琥一はどかりと水道の淵に座り込む。琥一の百戦錬磨の恫喝は、彼が幼馴染だということを忘れそうになるくらい恐ろしいものだった。
 ここは不二山をかばうべきなのだろう。失恋はしてしまったけれど、彼は不器用なりに自分を気にかけてくれていた。「そんなことない」と言ってやりたかった。だが、本当のことを言うと、美奈子もその答えを知りたかった。琥一は、美奈子が決して踏み込めないところをえぐっていったのだ。
 黙っていると、彼の瞳が瞬いた。考え込むようにして目を閉じ、ゆっくりと開ける。
「……悪かった」
 不二山がぽつりとつぶやくのを、美奈子ははっきりと聞いた。
「おまえが泣いているのを見て、俺――」
 美奈子は動揺した。不二山がこんな風に弱っているところなど、見たことがなかった。美奈子から見た不二山は、いつも強くて、自分の信念を持っていて、揺らぐところのない人だった。美奈子の決死の玉砕にも、何のダメージも負っていないように思えた。
 だからこんな自分でも彼に影響を与えることができたんだ、と思った。けれど、すぐにその考えを打ち消す。これではただの足手まといだ。選手のコンディションを悪化させるようでは、マネージャー失格だった。
 美奈子は精いっぱいの虚勢をはって、不二山を見つめ返した。自分の気持ちは届かなかったけれど、マネージャーとしての自分が求められるなら、それに応じるのみだった。
「大丈夫だよ。泣いてないよ」
 そして、不二山くんは気にしなくていいんだ、とお決まりの台詞を繰り返した。これは本心でもあるけれど半分ぐらいは社交辞令だった。振った相手のことなど、気にすべきではないのだ。でも、こんな風に気にかけてくれることが慰めでもあった。
 美奈子は琥一に向き直る。話を聞いてくれた琥一にお礼を言わなければ。そして自分の代わりに汚れ仕事までしてもらった。彼がいなければ、不二山からあんな言葉など聞けなかっただろう。それだけで美奈子は幾分気が紛れていた。
「ありがとね、琥一くん」
 私、吹っ切れそうだよ。
 だがその台詞は最後まで言わせてもらえなかった。
 大きな手でがっちりと肩を掴まれる。不二山の真剣な瞳が、まっすぐに美奈子をとらえていたからだ。
「おまえの事、大事にするから」
 その言葉に、びくり、と背筋が震える。
「えっと」
「大事にするからな」
 逡巡していると、再びそう言われた。
「返事は?」
「はい」
「よし」
 不二山はうなずいた。
 だが美奈子はあっけにとられたまま、何が起こったのか理解できていなかった。勢いに押されて返事をしてしまったけれど、結局どういう意味なのだろうか。大事にしてくれるのは柔道部のマネージャーだから? それとも――。
 と、そこまで考えて、美奈子はその言葉を胸の内にしまいこんだ。



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