3.トモダチ

 小波美奈子は、困っていた。
 ここのところ休み時間に不二山が隣の席から椅子を持ってきて居座るのだ。そして時々屈託のない様子で何事かを話しかけてくる。不二山からは気を遣われているのだろう。そんな気の遣い方などしてもらわなくてもよかったのだけれど、きっぱりと断りきれずにいる。その上クラスメイトから「今日もラブラブだね〜」なんて冷やかされると、気が重い。失恋したままなのかさえ曖昧だった。それとも、不二山のあの発言を都合よくとらえてもいいのだろうか。怖くて本人には聞けそうもなかった。それがずっと頭の中を回っていて、苦しかった。
 今日もトイレに行ってやりすごすという手はさっき使ってしまった。もうじき授業が終わってしまう。次はどうかわしたらいいのだろうか。授業が終わった瞬間、カレンがいる隣のクラスに逃げ込んだら、不自然だろうか。
 しかたなく寝た振りをすることにする。
 授業が終わり、ぼんやりと机に伏せていると、頭上から名前を呼ぶ声が聞こえてきた。そしてがたがたと椅子を寄せる音。
「小波」
 特徴的なハスキーボイス。その声の持ち主は、美奈子の知っている限り一人しかいない。
「なあ。こーなーみっ」
 じっとしていると、頭をそっと撫でられた。美奈子はぴくりと肩を震わせる。髪をなでるその手つきはあくまでも優しい。それがまた、美奈子の気持ちをざわつかせる。
「……具合悪いのか?」
 このまま無視していれば諦めてくれないだろうか、などという虫のいい考えはあっけなく消え去る。耳のそばでささやかれて、さすがに美奈子は顔を上げた。至近距離でその人物と目が合う。予想した通り、不二山の顔がそこにはあった。目が合うやいなや彼はにいっと笑い、美奈子の心は揺さぶられる。
「なんでもないよ。どしたの」
 本当はなんでもなくなんてない。けれど、振られた当人になど言えるわけもなく、美奈子はそう言ってみせる。
「なあ。次数学だろ、昨日の宿題やったか」
「……ああ。はい、ノート」
「……おう。どうもな」
 不二山の言外の言葉を先回りして机を漁り、ノートを手渡す。彼は何故か微妙な表情をしたが、それについて考える余裕なんて美奈子にはなかった。
 異性の友達――というよりもはや便利屋ポジションなのかもしれない。そう自覚せざるを得なかったからだ。机で寝ているところを起こされて、宿題を見せろと要求される。その程度の扱い。「大事にする」と言われた気がするけれど、あれは何だったのだろう。つらい時に見た都合のいい幻だったのかもしれない。
「終わったら机に置いといてくれたらいいから」
「あっ! なあ――」
「カレンのとこ行ってくるね」
 美奈子は立ち上がり、教室を出た。周りに気づかれないようにぐい、と目頭をこする。カレンが隣のクラスでよかった、と今は思う。逃げる場所ができるからだ。


「振られたか」
「振られたな」
 ゴシップ大好きな同級生たちがにやにやしながら不二山の方を見やる。
「……そんなんじゃねえよ」
 彼らに感情を見せないように否定したが、不二山は明らかに落胆していた。
 以前なら彼女の叱咤激励や宿題の出来など他愛のない話を聞きながらノートを書き写すのだけれど、今日は違った。彼女はノートを渡してそそくさと行ってしまった。やっぱり前と同じようにはいかないのだ、と思い知る。
 宿題を見せてもらう、というのは建前。それにかこつけて話をしたり、笑いあったり。ただそれができるだけでよかったのに。自分が手放してしまった。
 好きという気持ち。この胸の痛み。自分にはわからないから、と深く考えようとしなかった。そのつけが今、回ってきている。
 今まではそれで不都合などなかった。だが、美奈子を泣かせてしまって初めて自らの気持ちがはっきりと揺らぐのを感じた。
 彼女を大事にする。その言葉に嘘はない。だが一体どうやって? どうすればいい?
 部活では黙々と仕事をこなしてくれている。だが、最近ずっとぼんやりと表情をなくした白い顔をしていた。何とかして以前の調子を取り戻してやりたいが、不二山にはこんな手段しか思いつかない。今日も思い切って机に伏している美奈子に声をかけたら、逃げられてしまった。
 不二山はため息をつき、借りたノートを開く。気が進まないが、借りたからにはせめてちゃんと目的を果たさなければならない。
 彼女の筆跡を見るが、ちっとも頭に入ってこない。頭をかきながら、何も考えずにただ写し取る。
 こんなの、彼女が横にいなけりゃ何の意味もないのに。
 不二山はようやく自分の気持ちを自覚しつつあった。彼女が離れて行ってしまった今、気づいたところで遅いということにも。


「カレン、みよ」
 隣のクラスを覗き込むと、カレンがみよとおしゃべりをしていたので好都合とばかりに飛びついた。
 カレンが「おお、いとしのバンビ!」などとおおげさなことを言いながら抱きついてくる。
 花椿カレン。宇賀神みよ。二人は親友、といってもよかった。弱っていたときもとても心配してくれて、彼女たちには顛末を話していた。失恋したこと。その後不二山に「大事にする」と言われたこと。
 だがカレンは首を振った。
「それって『都合のいい女』ってやつじゃないの? バンビ、騙されちゃダメッ」
 ぐさっとくる。考えないようにしていたのに。女友達はこういうところ容赦がない。でも、これが彼女なりの優しさなのだと思う。真剣に考えてくれている。
「やっぱりそうなのかな」
 今日だって宿題を写すためにノートを渡してしまった。いいように利用されている、といえばその通りなのだろう。認めたくはなかったけれど。
「お弁当のときもよく見られるんだよ。『それうまそうだな』なんて言って」
 冗談めかして言うと「バンビ、気をつけて! 食べられちゃうよ!」と突っ込まれた。そうかもしれない、とちょっと笑顔が戻る。
 だが、未練を理由に断れないのは自分だった。断ってしまったら、二度と話しかけてくれなくなるんじゃないか。失恋してもなお、この細い糸に未だにすがりつこうとしている。
「前よりも気を遣ってくれて優しいんだ。でもそれって何なんだろう……同情? マネージャーだから?」
「バンビ! つらかったらマネージャー辞めてもいいんだよ。バレー部においでよ。楽しいよ〜」
「バレー部かぁ……」
 美奈子は少し考える。カレンと休み時間にやるバレーは楽しい。けれど部活となると生半可なことではないだろう。それに、二年の半ばにもなって新しい部活に入ることはやはり敷居が高かった。
「バンビ。美術部も歓迎」
 みよが口をはさむ。
「そうだよバンビ。くまちゃんをいったん忘れてさ、見つめなおす時間も必要なんじゃない?」
「そっか……そうかな……」



 今日も気が進まないまま部活にやってきた。カレンにはああ言われたけれど、踏ん切りをつけられないでいる。辞めるにも勇気が必要だった。顧問の大迫に伝えてそっと辞めたら、不二山は引き止めに来るだろうか。引き止めに来ても来なくても、どちらの場合も心が波立つだろう。勝手なものだと思う。
 部室では乱取り稽古中だ。気合の入った声と、時折畳に打ち付けられる音が聞こえてくる。大会が近くなってきて、柔道部も慌ただしくなってきた。美奈子も例外なく準備に追われることになる。部室の隣の準備室で、美奈子は不二山の柔道着にゼッケンを縫い付けていた。裁縫は苦手だけれど、不二山は柔道をやっていることを家に内緒にしているというから、必然的にそれはマネージャーの仕事になる。
 ふと部室の扉が開く。身をかがめてこそっと出てくる新名と目が合った。
「美奈子さん、チョリッス! 元気?」
「……うん。新名くん、そういえばこの前大丈夫だった?」
 美奈子はこの間の一件を思い出す。新名が不二山に怒鳴られていたが、新名に非はないのは明らかだった。あれは自分のせいで不二山に怒鳴られたようなもので、いわばとばっちりだった。新名は「ああ、あれ? いつものことだし」とケロリとしている。
「それよりアンタ大丈夫? 世界中の苦しみを全部背負ってます! みたいな顔しちゃってさ」
「え! そんな顔してた? やだもう……」
「最近ちょっと落ち着いてきたみたいだけど、一時期もうすごかったっしょ。柔道部のみんなも心配してたぜ」
「うそっ!? はぁー。すまないねぇ心配かけて」
 そんなに顔に出ていたのだろうか。そのため息に、笑いながら「頼むぜ母ちゃん」と合いの手を入れられる。
「父ちゃんと母ちゃんの仲がビミョーだと、俺たち息子が苦労するっての。父ちゃんの事も少しはわかるつもりだし、なんかあったら相談に乗るからさー。ほら、子は鎹ってやつ?」
 彼なりに気を遣ってくれているのだろう。失恋のことは言いたくなくて、少し話題をそらした。
「……うーん、悩みっていうか。不二山くんは『柔道が恋人』だし。柔道には勝てないもんね」
 それを聞いて新名はえ、と妙な顔をしたと思ったら笑い出した。
「なんで笑うの!?」
 恥ずかしくて新名の肩を叩く。やっぱり本気の相談をしなくてよかった、と思ったけれど、これもかなり本音の類であったので顔から火が出そうだった。
「アンタさぁ、そんな事考えてたんだ。つーか柔道をライバル視する必要なくねぇ? どっちかっつーと、柔道が恋人というより柔道は嵐さんそのものっしょ?」
「え……」
 美奈子の手が止まる。そんなことは考えたこともなかった。彼はずっと柔道に夢中で、美奈子はそれを追いかけるために必死だった。いつか柔道よりも近づきたいと思って。だからずっとそう思い込んできた。
「新名くん、すごい。私そんなこと考えたこともなかった」
「ちょっと、俺のこと惚れ直しちゃった?」
「コラァ! 調子に乗るなぁ! ふふ!」
 美奈子の一喝に新名の肩が落ちる。でも見直したのは事実だった。
「だからさ、そんなに思いつめないでよ。柔道部のマネージャーやってるアンタはそれだけでトクベツ、ってこと。嵐さんもアンタのこと良く見てるんだぜ? 知ってた?」
「まさか」
「まさか〜? ねぇ。じゃあ聞くけど、この前俺が怒鳴られたのなんでだと思います?」
 新名の問いに、美奈子は逡巡する。あの時は自分のことで精いっぱいで、深く考えたことはなかった。たまたま機嫌が悪かった、ということもあるけれど、その原因は何だろう。
 そういえば新名の手が肩に触れた瞬間、鬼のようにすっ飛んできた。いや、まさか。ひとつの可能性に行きついて美奈子の体は紅潮するが、答えをはぐらかした。勘違いするのはごめんだった。
「えぇ……っと、部活中に私語は厳禁! みたいな?」
「ハァ〜これだもんなぁ。あのさ、嵐さんは美奈子さんに他の男が近づくとすっげ不機嫌になるわけ。本人も自覚してないみたいだけどさ」
「……うっそだぁ」
「うそなわけないじゃん。柔道部のみんなで気を遣ってるっつーのに」
「うそだよ。そんなの気にしなくても大丈夫。私は柔道部のマネージャーなんだからさ」
 それは美奈子が想像し、頭の中で否定した言葉だった。実際にはそんなものありはしない。けれど、少し気分が楽になる。例えお世辞だとしても。
「でもありがと。ちょっと元気出たよ」
「ハァー。ならいいけど。アンタがそんな顔してたんじゃ、柔道部員のモチベーションがなくなるし。俺も含めてさ」
「あはは、相変わらず口がうまいなぁ」
 その時、部室の扉から部長の不二山が顔を出した。
「新名、さぼってんな!」
「げ、見つかった。すんません今行きます」
 新名が扉に向かうと、不二山が檄を飛ばすように新名の背中を叩く。そして入れ替わるように不二山が準備室の中に入ってきた。今の会話を聞かれてやしないだろうか、とひやひやする。
「小波もおしゃべりに付き合ってんな。新名がさぼってきたら、追い返せ」
「はい、すいません」
 そして不二山は美奈子の手元に目を留めた。
「これ、俺のか」
 美奈子はうなずく。
 不二山は何をするわけでもなく、腕組みをしたままぼんやりと裁縫の様子を見つめていた。下手なうえに、見られると余計に緊張してしまう。「練習はいいの?」と声をかけるが、彼は「任せてきたから大丈夫だ」と頑として動かない。いつもより手に針を刺す回数が増え、その度に不二山に心配される。
「おまえすげぇな。いつも助かってる。どうもな」
 ようやく四方を縫い終え、不二山が目を輝かせて言うが、あんまり胸を張れるような出来栄えではない。「がたがたでごめんね」 と言いながら柔道着を渡す。
「手、大丈夫か? 見せてみろ」
「い、いいよ! 大丈夫大丈夫」
「そう言うな。ほら」
 と、強引に手を引っ張られる。血こそ出ていないものの、何か所も刺し傷の跡があって恥ずかしかった。
「ちゃんと消毒したほうがいいんだ、こういうのは」
 不二山はそう言い、救急セットから消毒液と絆創膏を取り出し手際よく処置していく。指が絆創膏だらけになり、なんだか裁縫の下手さを代弁しているようだった。
「かっこ悪いね、これ」
「そんなことねぇ。勲章だろ。自分が頑張ってきた証みたいなもんだ」
「……そっか。その考え素敵だね」
 ふふ、と笑みがこぼれる。こんな前向きなところに惹かれたのだ、と今更ながら思い出したのだ。
 そういえばこの小さな準備室で二人きり。緊張してくる。彼はしばらくじっと美奈子の顔を眺めていたと思ったら、おもむろに切り出した。
「……なあ。部活辞めねぇよな」
 ど直球の牽制球だった。まさかカレンたちとの会話を聞かれていたのだろうか。いや、そんなまさか。
「え……や、辞めないよ」
 美奈子は動揺したまま、そう口走る。この状況ではこう言うしかない気がした。というより、言わされてしまった。
「よかったあ」
 彼はほっとしたように言った。その言葉で、図らずも胸がぎゅっとした。さっきまではどうやって辞めようか考えていたぐらいだったのに、新名の気の利いたおしゃべりと不二山の直球によって、もうすっかりマネージャーを辞めるという気は失せてしまった。
「おまえは大事なマネージャーだからな」
 その言葉は、美奈子の胸をちくりと刺した。
「全然大したことしてないよ。最近はみんなにも迷惑かけてるし……でも、ありがとね。私頑張るよ」
「そんなことねぇ。おまえがいるから、俺は柔道を続けられてる。おまえじゃなきゃ、嫌なんだ」
 不二山の強い瞳に見つめられて、美奈子は自分の認識を少し改めることとなった。
 マネージャーとしか見られていない、ではなく、マネージャーとして必要とされている。マネージャーとして頑張らなければ。



「小波いるか」
 それは珍しい訪問客だった。琥一が美奈子のクラスに顔を出し、声をかけたのだ。
 クラスがざわめいているけれど、美奈子はかまわず席を立った。
「琥一くん? どうしたの」
 一体何の用だろう。今まで教科書の貸し借りなんてしたこともないし、休み時間にこうやって呼ばれたことなどない。呼ばれるがまま廊下についていくと、彼はおもむろに口を開いた。
「……オマエ、しけたツラしやがってよ。元気か」
 美奈子は少し考えて、その言葉の意図に思い当たる。彼は心配して様子を見に来てくれたのだ。つい嬉しくなってしまい、琥一を茶化してしまう。
「おうおう、どこに目つけてんだコラァ!」
「アァ!? ……ま、元気ならいいけどよ」
「うそうそ、ありがと琥一くん」
 口は悪いけれど、端々からこちらを気遣ってくれるのがわかる。
 彼は柔道部の様子をそれとなく気にかけてくれた。ちゃんと行ってるよ、と言うと妙な顔をした。その件については和解したんだと伝える。
「そうかよ。また泣かされるような事があったら言え。シメてやる」
 美奈子は声を出して笑う。琥一が不二山をシメる図など想像できなくて、なんだかとてもおかしかった。もし本当に柔道部に乗り込んできたとして、どうなるんだろう? 柔道で戦うのだろうか?
「ええ、でも不二山くんは強いよ? 大丈夫かなぁ」
「アァ? 所詮スポーツだろ。俺のは実戦だ、相手になんねぇよ」
 そう言い、琥一は握りこぶしを作る。彼は体格も大きいし、凄まれると迫力がある。特に中学生時代はすごかったらしく「隣の中学の奴らが血祭りにされた」「学校中の窓ガラスが割れた」など、さまざまな噂が流れていた。けれど、美奈子は琥一が実際にケンカをしているところを見たことがなかった。だからほぼ都市伝説なんじゃないかと思っている。そう思えるぐらい、目の前の男と噂が結びつかない。
「そっか! すごいやアニキ!」と茶化して言うと、彼は視線をそらして頬をかいた。



「なあ、次の英語の宿題ってあったろ。あれさ」
 ――来た。
 美奈子はぐっと握りこぶしを作る。今日こそは言ってやる。
 今までずっと言えなかった。これを言ったら不二山に嫌われてしまうかもしれない、と思っていたからだ。だが、言ってやらなければ。もう「都合のいい女」は止めるのだ。
 握りこぶしがかすかに震える。
「コラァ! 自分でやるんだっ!」
「……押忍」
 勢いに任せて大迫先生のまねをする。不二山は一瞬目を見開いた後、しゅんとした。罪悪感で胸が痛む。いや、不二山が宿題をやっていないのが悪いのだが、彼にはつい手助けをしてあげたくなってしまうような何かがあるのだ。ずるい、と思う。その気持ちを断ち切るように、再び声を上げる。
「良いか不二山殿。宿題を自分でやることが自らを高めることにつながるのではないかエヘン!」
「押忍。つーか誰だよ? 『エヘン』って」
 今度は中学の時の先生のまねだった。わりと似ていると美奈子は自負していたけれど、中学が違う不二山に通用するはずもなく、弁解すると彼は微妙な反応を示した。下手すると怒らせるかもしれない、と思っていたので、それよりはましだった。
 だが、これで次からは自分のところに来なくなるだろう。彼は柔道以外で面倒なことが嫌いだからだ。美奈子より勉強のできる同級生は何人もいるから、誰か他の人にノートを借りに行くだろう。仕方ない。
「なあ。じゃあ教えてくんねえ? 答えじゃなくていいから、ヒントくれ」
「えっ、いいけど……」
「押忍! どうもな」
 今度は美奈子が目を丸くする番だった。宿題を写すことができればそれでよく、自分でやらせようとすると不満の声を上げていた不二山がそんなことを言い出すとは思わなかった。そして不思議な事に彼は生き生きとノートを取りにいく。あの勉強嫌いの男が。信じられない。
「私もそんなに英語得意じゃないよ」とは言うものの、彼は聞いていない。
 不二山は嬉々として美奈子の隣の席から椅子を引っ張ってきて座り、そしてノートを広げた。
「ここがさー」
「最初から!? しょうがないなあ、もう」
 顔を突き合わせてノートを覗き込む。なんだかずいぶん顔が近い気がするけれど、自分が意識しているせいだろう。美奈子は意識しないように気をそらしながら、問題を読み解いていく。ふと見上げると、不二山が肘をついたままこちらを見つめていた。全身がかっと熱くなる。
「……聞いてた?」
「ああ。聞いてたぞ。続けろ」
 悪びれる風もなく彼は答える。ノートに目を移し、説明を再開しかけて、ふと再び不二山を見る。彼は全く臆する様子もなく、にこっと微笑みかける。美奈子に視線を固定したまま、かけらも動いていないように思えた。
「どうした?」
「いや、何見てるのかなって」
「おまえ」
「ノート見ようよ!」
「見てもわかんねぇんだもん」
 前途多難だった。結局彼は何をしに来たのか今の美奈子には見当もつかなかったけれど、こうやって日常の会話ができるようになってきたと思うと、胸のつかえがとれた気がした。今までは嫌われるのが怖くて、ずっと言えなかったのだ。ずっと彼の背中を追いかけてきたけれど、ようやく肩を並べることができたのかもしれない。
 例えただの部活仲間として、でも。今はそれでもよかった。



次のページへ

トップページへ