4.ギャクテン(前)


 休み時間。美奈子は琥一に呼び出されていた。彼らは幼馴染なのだと聞いた。最近二人でしゃべっている姿をよく見るような気がする。美奈子は琥一に「アニキ」と言ってはけらけら笑っている。荒っぽい言葉で啖呵を切って、琥一も悪びれずに受け答えしている。面白くない。自分だったら……「口悪ぃぞ」などと注意しているだろう、とぼんやり考える。
「不二山ぁ〜。いいのか? アレ」
「なにが」
 同級生がその二人を指さす。無論いいわけがない。自分以外の男と楽しそうにしゃべっている姿を見ていると、胸が激しくざわつく。
「寝取られかー?」
「不二山、言ってやれ! 『俺の女に手を出すな』って」
 同級生はげらげら笑っているが、不二山はそれを聞いて口をへの字に曲げる。面白くない。からかわれているのはわかっているが、その台詞は図星なのだ。余計に面白くなどなかった。
 不二山はがたん、と音を立てて立ち上がる。そして二人が立ち話をしている廊下に向かって歩いていく。後ろで同級生が盛り上がっているのが聞こえるが、気にしていられない。考えていたところで事態が変わるわけでもない。ならば、自分から行くだけだ。
 廊下に出ると、彼らの会話が聞こえてくる。
「オマエは昔っから意地っ張りなんだよ」
「もう! またそうやって昔のことを引っ張り出す。そんなこと言ってると泣かしちゃうよ」
「アァ? やんのか」
 琥一に凄まれ、美奈子は「やんのかコラァ」とふざけて両手を構えた。全然なっていない。そんな構えではどうにでも抑え込める。手首をつかんで――と、そこまで考えてそれを振り払う。最近、無意識に美奈子相手にシュミレーションしてしまう。部活中でさえ、それが頭の中にちらついて動きが止まることもあった。心の乱れだ。だが、それでもなお彼女に近づきたいと思う。
 不二山は近づきながら会話の糸口をうかがう。彼らは窓の外を見ていて、こちらには気づかない。
「琥一くん、そういえば動物園にわんにゃんハウスが出来たの知ってる? わんにゃん、かわいいよね。琥一くんに似合いそう」
「ハァ? 似合わねぇよ」
「そうかな」と美奈子はいたずらっぽく笑う。
「ハァ、むしろ犬猫が好きなのはオマエだろうよ。連れてってやる。……今度の日曜とか、どうよ」
「まじっすかアニキ! その日はちょうど――」
 不二山は二人の会話に割って入った。ぎりぎりのタイミングだった。
「駄目だ」
「アァ? なんでテメェが入ってくんだよ」
 琥一があからさまに嫌な顔をするが、気にしていられない。美奈子が振り向いて、驚いたようにこっちを見ている。なんとか理由をつけて繋ぎ留めなければ。絶対に行かせるわけにはいかなかった。
「その日は……部活の買い出し」
「あれ? 何か足りないものあったっけ?」
 美奈子はきょとんとしている。しばらく首をかしげつつ「そっか、琥一くんごめんね! 買い出しだって」と言った。部活を引き合いに出して良心が痛まないでもないが、とりあえず阻止できたことに安堵する。
「……オウ。気にすんな」
 琥一が渋い顔で答える。
 不二山は二人の間に割って入り、琥一に向かって立ちはだかった。少し卑怯な手を使ったが、ようやく美奈子を琥一から引き離した。今、自分は悪い顔をしているに違いない。だが、今まで美奈子の相手をしてくれていたことに、一応、挨拶はしなければなるまい。
「琥一。世話になったな」
「ハァ!?」
「小波、次移動教室だから行くぞ」
 そう言い、美奈子の背を押した。美奈子は戸惑っているが素直に従う。琥一は後ろで「テメェなんぞ世話した覚えはネェ」と吠えている。
「ああ、小波が世話になった。俺からも礼言う」
 ここまで言えばもうわかるだろう。言外に伝わったのか、琥一が「テメェ……」と歯噛みした。事態を把握しているのかいないのか、美奈子が「琥一くん、また今度」とのんきなことを言っているが、そんな機会など、もう作らせる気はない。美奈子は――俺の、だからだ。



 この間は不二山が割って入ってきて、びっくりしてしまった。彼との気まずい空気が解消されていくにつれて、ふとした拍子に肩を叩かれたり、近くで顔を覗き込まれたり、そのような事が増えた。
 同じ部活の仲間、そして異性の友達。それ以上の関係はない、と美奈子は自分に言い聞かせた。こうやって軽口を言って笑いあったり、肩を叩いたりするのも、友達だからだ。時々切なくなるけれど、彼は「以前の関係に戻りたい」と言った。そうしなければ。
 今日は部活の買い出し。美奈子は商店街の入り口でぼんやり待っていた。時計を見ると、約束の二十分前。早く来すぎてしまった。
 今までも不二山と出かけたことはあるけれど、トレーニングや部活の買い出しに付き合う程度で、そういえばデートらしいデートなんて一回もしたことがなかった。よくあれで告白などという暴挙を行ったものだ、と苦笑してしまう。
 今日のこれも断じてデートではない、と美奈子は自分に暗示をかける。調子に乗ったら、傷つくのは自分なのだ。
 そこへつかつかと歩み寄ってくる音がして、美奈子は振り向いた。
「キミキミ! アイドルに興味ない?」
 声をかけてきたのは、怪しい風体の男だった。長髪でサングラスに細身のスーツ。普通のサラリーマンではない。
 不二山ではなかった、と美奈子は少し落胆する。男は美奈子の警戒をものともせずしゃべりだす。
「HBK428って知ってる? アイドルグループの。ちょっとサテンでオ〜チャ〜でもノ〜ミ〜ながらお話しない?」
「いえ、あの」
 美奈子は無意識に一歩後退する。自称アイドルプロデューサー。彼はそのような事を言ってのけた。サングラスの奥がぎらぎらしているような気がして、ぞわりと鳥肌がたつ。
「駄目だ」
 そこへ男がずいと割って入る。顔を見なくても、すぐに誰だかわかった。いつも見ているたくましい背中。不二山だった。
 不二山は美奈子をかばうように背中に隠した。美奈子は心細かったのだろう、無意識に不二山のシャツをつかむ。
「こいつは俺んだ。他の奴にふりまく愛想なんてねーんだよ」
「えっ?」
 何か今すごい台詞を聞いた気がする。俺んだ? 俺んだって何のことだろう?
 不二山の陰に隠れていると、男は捨て台詞を吐いて去って行った。
「なんだあいつ。……大丈夫か?」
「う、うん」
 彼はいつも通りの涼しい顔。
 つい不二山のシャツの裾をつかんでしまったことが恥ずかしかった。慌てて手を離す。
「つーか悪い。もっと早く来ればよかった。おまえも女なんだから気をつけろよ」
 美奈子はぽかんと口を開けた。彼の口からそんな言葉が飛び出してくるなんて思ってもいなかった。今まで女扱いなんてされたことがあっただろうか。いや、ない。女扱いで思い出したのは「こういうのは男が遅れるもんだろ」と、なんか怒られた、ということだけ。
「どうした」
「そんなこと言うの、初めて聞いたよ!」
「そっか?」
「そうだよ」と美奈子はおどけて言った。ほっとしたのか、笑顔がこぼれる。
 落ち着いてきて、ようやく美奈子はマネージャーとしての顔を見せた。今までもこまごま買い足していたから、備品は不足していないはずだった。何か新しいものでも買うのだろうか。
「何か買うものあったっけ? 一応備品はチェックしてきたけど」
「んー。新しいスポーツウェアが欲しくてさ」
 不二山はおもむろに口を開く。
 それはマネージャーの仕事なのだろうか。部活の買い出しというよりは、随分個人的な買い物のような気がする。じっと見つめるが、悠然と見つめ返されて逆に言葉を失う。何かこちらのほうが間違っているような気さえしてくる。
「あれ、部活の買出しって聞いてた……ような……」
「うん」
 あまりに悪びれずにいうものだから、美奈子も混乱してきた。だが、ここで流されるとまた彼のペースだ。言うべき事は言う、と決めたのだ。
「余を謀りおったのか!」と憤慨してみせると、彼は悪い顔をして舌をぺろりと出す。いたずらを見つかったときの子供のようだった。
「ばれたか。……悪かった、お詫びに茶でもおごる」
「そのような物で釣ろうとするとは……アナスタシアのはにかみザッハトルテだ!」
「ん。わかった」
 勢いで取引が成立してしまった。なんだか釈然としないが、悪い取引ではないし、笑顔で応じる不二山を見てどうでもよくなってしまった。
「じゃ、行こ」


 不二山が歩き出すと、美奈子も遠慮がちに少し離れて歩く。隣に並んで歩くには少しハードルが高い。彼女は異性の友達としての適切な距離を探っていた。少し前まではどうしていたのか思い出せない。
 不意に不二山が立ち止まる。
「もっとこっち来ていいぞ。それじゃ話しにくい」
「お、おっす」
 不二山が腕を広げて待つから、思い切って一歩ぴょんと近づいた。懐に飛び込む形になり、慌てて彼の胸を押して距離を取る。この距離は適正なのか、男友達として適切な行動なのか、もはや全然わからなかった。女の友達とは全然違う、硬い筋肉の感触にどきっとする。
「ごめん、ぶつかっちゃった。筋肉すごいね」
 うっかり手を伸ばして、そして我に返る。不用意に触らないと決めたのだ。
「触りたければ触っていいぞ」
「え! いや、えっと」
 美奈子は手を振って誤魔化した。
「拙者、君子は危うきに近寄らないことにしたでござる」
「誰だよそれ? 危うきって俺か?」
「いや、そこは『おまえ君子かよ』って突っ込むところだと思います」
「……まいっか。ほら、手貸せ」
「えっ?」
 話を聞いているのかいないのか、半ば強引に手を引っ張られてがっちりと繋がれる。
「あのー……この手はなんでしょう」
 おかげで手のひらにまで妙な汗をかいている。離してくれないかと思い切って引っ張ってみたが、びくともしない。
「う、腕相撲かっ!」
「そんなわけねーだろ。お前危なっかしいからな、ちゃんと手繋いどかねーと」
「何それ! ……うわ」
 がっしりと繋がれた手をいきなり引っ張られて転びそうになる。恨めしそうに見上げると、不二山は悪い顔をして笑っていた。
「ほらな」
「不二山くんが引っ張るからだよ!」
「ははは。そうだな」
 ぎゅっと、つないだ手に力をこめられる。不二山の手は分厚くて、大きくて、温かかった。テーピングのざらざらした感触が触れる。みよやカレンのような女子の手とは全然違うと思うと、体がかっと熱くなった。


 不二山につれられてスポーツショップに入ると、彼は真剣な表情でウェアを選びはじめる。男の子の服のことはよくわからないけれど、「これなんかどうだ」と聞いてくるから美奈子は合いの手を入れる。
「いいんじゃないかな、動きやすそうだし。サイズは合ってる?」
 ウェアを手に取ってみると、自分の着ているサイズと全然違うことを意識させられる。彼の背中から合わせてみるとぴったりだった。不二山の背中は大きくて、日頃の練習でよく鍛えられているのがわかる。背中に触れていることに他意はない、と美奈子は自分に言い聞かせる。
 なんだか、これは、とても。デートみたいだ、と思う。
 あれこれ見た後、結局、白地に青が入ったウェアに決めたようだった。不二山はウェアを購入し戻ってきた。そして美奈子の手を当然のように取る。
「次はアナスタシアな? 行くぞ」
 そして宣言通り、アナスタシアではにかみザッハトルテをおごってもらう。「他にも食べたけりゃ頼んでいいぞ」などと言われるが、さすがに食べきれない。なんだかとても甘やかされている。不二山と一緒にいられて、スイーツまでおごってもらえる。夢のようだった。
 いや、それより。お会計などで手が離れた後も当然のように手を繋がれるから、正直なところ参っていた。勘違いしそうになる。
 それ以上に度を越している、とも思う。自分が片思いをしていた頃でさえここまではしていなかった、はずだ。自信はないけれど。
 アナスタシアを出て、商店街の入り口に向かってぶらぶらと歩く。もう用はないけれど、なんとなく離れがたかった。たまたま通りがかった薬局で特売をやっていたので、備品を少し買い込むことにする。
「スポーツドリンクはね、薬局で買った方が安いんだよ」と新聞広告チラシで仕入れた知識を披露すると、不二山が感心したようにうなった。
「うん。いい嫁さんになるな」
「えっ、あっはい……」
「なんだよ。褒めてんだぞ?」
 それは美奈子の胸にちくりと刺さった。他意はないのに違いない。けれど、振られた相手に言われても何にも嬉しくなんてなかった。
「いえ、何でもないです」
「またそんな顔をする。ちゃんと言え」
 美奈子は爆発しそうになる感情をぐっとこらえて「複雑……です」とだけ答えた。不二山は驚いたようにちょっと目を見開いて、そしてつないだ手に力を入れる。
「この後時間あるか?」
「あるけど、どうしたの」
「ちゃんと話がしたい」

 そして二人は海に来ていた。夕暮れの海は風も出て、少し肌寒い。
 さっきまで笑顔だった不二山が急に静かになった。話しかけても上の空で、様子がおかしい、と思う。いや、おかしかったといえばここのところずっとおかしかったのだ。会話に割り込んできたり、肩に触れたり。部活以外のところでもずいぶん話すことが増えた。今日だって手をつないだ。新名が言っていた耳触りのいい言葉が頭をかすめる。ひょっとして。――いや、まさか。二つの感情がせめぎ合う。
 不二山が決意したように大きく息を吸い込む。そして一言。
「おまえ、まだ俺のこと好きか」
 うなずきかけて止まる。その言葉に何の意図があるのだろう。今まで散々期待して、そして無駄に傷を増やしてきたじゃないか。そんな思いが美奈子を慎重にさせていた。
「何でそんなことを聞くの」
「いや……」
 妙に歯切れが悪い。恋だの愛だの、柔道の邪魔になるぐらいにしか思っていなかった彼がこんなことを言い出すなんて。
「あ。わかった! ……ひょっとして、誰か好きな人ができたとか? なーんて」
「……ああ」
 なーんちゃって、と茶化してしまいたかったが、それは最後まで言わせてもらえなかった。
 不二山は思いつめた表情のまま、頬をほんのり赤らめていた。あんな顔、見たことがない。自分が告白したときだって、あんな顔をさせられなかったのだ。彼にいったい何があったのだろう? なんだかとてもショックだった。
「えっ、誰――や、やっぱり聞きたくない」
 美奈子は聞きかけて、耳を塞いだ。
 ひょっとしたら自分かもしれない。でも、他の人だったらどうしよう。わずかな可能性がちらりと顔をのぞかせ、むくむくと膨らんでくる。それはとてつもなく恐ろしいものだった。
 今ようやく失恋からようやく立ち直って、不二山とは友達としてのいい関係を築きかけているところだった。隠してはいるけれど、まだ古傷は癒えているとは言い難かった。自分に気がないとはっきり見せつけられて、その上他の子との恋愛話まで聞かされたら。立ち直れる自信がない。
 彼とは友達だ。友達なら、相談に乗ってあげるべきなのかもしれない。そうか、不二山は異性の意見を聞きたかったんだ。だからあんな予防線を張った。美奈子が吹っ切れているかどうか聞くために。どうしよう、辻褄が合ってしまう。
「ごめんね。帰る」
「小波?」
 友達でもいいと思っていた。けれど心はそう言っていなかった。そんな話など、聞きたくはない。相談になんて乗れない。
 美奈子は唇をかみしめる。泣き出さないように我慢するのが精いっぱいだった。



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