森の守人


1.森の守人

 侵食は、すでに始まっていた。
 青々、というよりは、黒々と濡れたように、しんとした森。木々のざわめきさえも、虫の羽音さえも飲み込んでしまうような静謐な空間。灰色の靄がかかり、重い空気がじっとりとのしかかる。
 それをうち破るような乱雑な足音、そして荒い呼吸が響く。それも、二つ。正確には、一人と一頭。
「侵入者だって?」
 先を走る若い男は、白い息と同時に大声を吐いた。まだまだ粗野な動きで足音も大きく、森の静けさをかき乱している。
「ええ、私の鼻がそう言っているわ」
 後を追う銀色の狼はそれに答える。
 それは美しい狼だった。大柄な体躯に似合わず、語調は繊細で、それでいて敵を見つけた時の険呑な響きを放っている。男とは違い、呼吸にもほとんど乱れがない。
 やがて、火薬の臭いがした。大きな獣の唸り声、そして犬のけたたましい吠え声も。彼女の言ったとおりだった。
 男は顔をしかめた。それは忌むべきもの。この森に存在してはいけないものだ。しかし、そんなに騒がしく自分の場所を知らせて、不快なにおいをまき散らして。よく獲物を捕まえようとするものだと思う。まったく、なっていない。
 男はかすかな足音を立てて、立ち止まった。
 火薬の臭いを纏わりつかせている男――狩猟者は驚いたようにこちらを見た。
「……人間、か?」
 青年は黙ったまま答えない。
 狩猟者はそれを肯定と捉えたのか、相好を崩した。
「ちょうど良かった。手伝ってくれ。あの大山猫(リンクス)を捕まえるのさ。なあに、二人なら簡単だ。本当は一人で捕らえるつもりだったんだが、埒があかねぇんだ。弾は当たったはずなんだが」
 やがて激しい雑音を発しながら、狩猟犬たちが帰ってきた。犬たちは彼女を迂回するように回りこみ、それでも牙をむいて威嚇している。まるで恐れているように。
「しかしその獣は狼か。えらい大物を連れているな。いやあ、たいしたもんだ」
 狼はぴくりと身をこわばらせた。当然だろう。人間に従っていると思われるなど、彼女にとっては、最大級の侮辱なのだ。だが、そんなことをご丁寧に説明する義理はない。

 そのとき、ぐるるる、と大きな唸り声。手負いの獣の声が聞こえた。
 リンクスの唸り声だと男は気づく。狩猟者も同様に思ったのか、鼻を鳴らした。
「おおっと、まだ近くにいやがったか。それじゃあお前はそっち側から――」
 狩猟者は最後まで声を発することはなかった。なぜなら、男がすばやく繰り出したナイフで彼の喉を掻っ切ったからである。
 彼の喉からはヒューヒューと呼吸が漏れていた。犬はなす術もなく、足元で吠えている。
 喉からとめどなく溢れる血を押さえながら、彼は喘ぐようにそれだけを言った。目はかっと見開いて、男を凝視している。まるで信じられない、とでも言いたげな目で。
「な、何故――だ」
「よく喋る野郎だ」
 青年の顔には今、初めてはっきりとした感情が表れていた。不快と侮蔑の入り混じった表情。そもそも初めから協力する気などなかった。勝手に味方と判断して、勝手に気を許しただけ。
 それが合図のように、狼が狩猟犬の喉元に食らいついた。群れの中でも一番大きな犬、恐らくリーダーを彼女は素早く判別し、捕らえたのである。狩猟犬のリーダーは必死でもがくが、体格の差で抵抗できるはずもない。やがてリーダーの動きが緩慢になっていく。その他の犬たちはかなわないと諦めたのか、文字通り尻尾を巻いて逃げ出した。
 狼がリーダー犬を口元から離すと、そのまま犬は体を地に横たえる。
「貴様……っ!」
 息も絶え絶えになりながら狩猟者は悪態をつく。
 だが青年は無慈悲にも、そこへナイフを振り下ろした。
「俺は……いや、俺たちは守人だ」
 守人。森の安寧と平穏を保つための仕事だった。つまり侵入者――森の安寧を荒らす者は排除する。森の存在を脅かす狩猟者など、もっとも忌むべき存在なのだ。
 狼はそれに同調するように、ころころと笑った。
 辺りには濃い血の臭いが漂っていた。狼を従えた若い男――守人は煩わしそうに顔を覆い、布の切れ端でナイフを拭う。いつになってもこの臭いには慣れなかった。

「よくぞ仕留めてくれた。可愛い可愛い、わが<息子>よ」
 守人はわずらわしそうに身を振るわせた。
「やっぱりこういうことは慣れない。いつになっても気分が悪い。ずっとこんなことを続けなきゃいけないのか? ――<母さん>」
「そうね。貴方は守人(もりびと)だもの」
 男はひとつため息をつき、そして狩猟者の持っていた銃を手にした。そして死んだ男の懐をあらためる。鉛玉や火薬、懐に入っていたナイフ、いくばくかのコイン。ひとつひとつ亡骸から慎重に取り除き、それらを巣に持ち帰る。
 亡骸は自然の摂理に従って処理されるだろう。現に大山猫がぐるる、ぐるると喉を震わせている声が聞こえてくる。早急に離れなければなるまい。
 狼は歌うように足踏みしていた。厄介ごとをひとつ片付けて機嫌がいいのだろう。男には狼の気持ちが手に取るようにわかった。


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