ひだまりの道化師

the Clown of Suntrap


その優美な絵姿  1




 漠然とした輪郭が、次第にはっきりとした陰影と形に見えてくる。
 私は筆を持ち替える。平筆から、細い筆へ。ただの平面に、光と影を描き込んでいく。
 フリーダの旧地区。細い路地にひしめくようにして建物が並んでいる。その街の一角、ひときわ古くて立派な建物の窓を私は眺める。
 キャンバスはその旧地区のアパートメントを描き出していた。黒が足りない。黒を差すと、光に包まれた旧地区は暗い影を落とす。画面が引き締まるように感じる。影は決して忌むべきものではないのだ。
 その中心に彼女を描き入れる。古びた建物の窓際に佇んでいる彼女を。限りなく優美なその姿を。
 そして視界をキャンバスから離すと、そこには現実が待っている。古びた街の一角の、窓を見つめる。その窓際には誰もいない。
 彼女はもうここにはいないのだ。
 視界がぐにゃりとにじむ。
 感傷に浸っている暇はない。私には、もうそんなに時間が残されていないのだ。

 私はある女優に恋をした。窓際に佇む彼女に。
 以来、私は絵を書き続けている。
 だが、どうしても納得のいくものを描くことができない。何かが足りない。何が足りないのだろう。得心がいかず、完成した絵を破壊することを繰り返していた。
 記憶が薄れていく前に、描きとめなければならない。彼女が確かにここにいたという証拠を。あの優美な姿を。



 ふと。ころころ、と足元に手のひらサイズのボールが転がってきた。と同時に子供が駆けてくる。蹴っ飛ばしたくなる衝動を抑えて、努めて気にしない風を装う。
「おおっと! 悪いなおっちゃん」
 その子供はボールを拾い、こちらに向かってにかっと愛想笑いを浮かべた。
 ほんの少しだけ心の内を晒すのならば、鬱陶しいのだけれども、それだけの理由でわざわざ話しかけ、追い払う気にもなれない。
 彼は手品のようにボールをお手玉したかと思えば、私の後ろからそっと覗き込み、絵を眺めている。いや、絵を眺めている振りをして私を観察しているのかもしれない。
 私はそれに気づかない振りをして絵を描く。
 我慢比べだ。
 しばらく素知らぬふりをして筆を動かしていたら、その子供が声をかけてきた。
「すげえな。絵、描いてんの」
 見ればわかるだろう。私は答えない。
「俺も描いてくれよ」
 私は彼をちらりと一瞥する。私と視線が合うと、にやりと笑い、手を振る。子供には不釣り合いな赤い手袋が私の脳裏にちりちりと焼き付けられる。
 再びキャンパスに視線を戻す。一瞬気を取られかけたけれど、彼の事などどうだっていいのだ。私が描きたいのは、彼女だけ。そう、あの女だけだ。

 再び絵筆をとる。
 子供は傍らに座り、私の絵を眺めている。
 まさか居座られるとは思っていなかったので私はほんの少し動揺を覚える。
 ざわざわする。集中できない。
 いい加減痺れを切らして、私は彼を見つめた。
 言葉が見つからない。気の弱い私のことだから、心は逸れど恫喝することも出来ない。ここまで出掛かっているのに。私の喉は声を発することを忘れてしまったように。
「……ああ、すまん。邪魔しちゃったか」
 意外なことに、彼は自分から退散した。
 そしてお道化た様に両手を挙げた。派手な赤い手袋が目を惹く。
「いや」
 子供風情に私の絵が理解できるのかと若干腹が立ったが、彼が大人しくなったので私は絵に向き直る。
 ……否。私は自分の甘さに心の中で舌打ちする。
 彼はそれを肯定と受け取ったのか、キャンパスを大胆に覗き込んだ。そして少年は一つ一つ確かめるように指をさす。キャンバスの表面に触れるか触れないかというところをさまよいながら。
「へぇ。これは花か。薔薇かな」
 建物を覆い尽くさんばかりに生い茂る緑。それに点在する赤、白の花。ざっくりとした薔薇の原型がそこには描かれていた。
 彼は真正面の建物を見やる。私もつられて見るが、そこにはただ閉じられた窓と建物がたたずんでいるだけだ。
 当然だ。この薔薇は、私にしか見えないのだから。私の心の中にしか存在しないのだから。私にはありありと見える。そこに息づいている様が。そして私はそれをこのキャンバスにありのままを表すことが出来るのだ。
 制作の邪魔をされて私はいらいらしていたのだが、彼の指がぴたりと止まり、私もそれに気を取られた。
「この人は……?」
 少年の指は、窓際にたたずむ女性をさしていた。
 私はわざとらしくため息をつき、睨みつけた。彼に何がわかるだろうか。いや、わかってたまるものか。不躾にも彼女に指をさすような奴に。
 少年は物のわかった風に指を引っ込め、黙り込んだ。

 だが、初めてだったのだ。私の心の中にこれほど踏み込んでくる人がいることが。
 彼女の存在に言及してくる人がいることが。
 本当は、誰かに話したくてたまらなかったのだ。私が彼女をどれほど思い続けていたのかを。
 私はキャンバスに筆を走らせる。落ち着かない。不安になる。
 私は筆をナイフに持ち変える。
 急激に心に雑音が入り込み、私の見ているものがどんどん崩れていく。心が逸る。ざっ、ざっと音を立てながら、私はキャンバスを削り取っていく。彼女がぼやけていく。彼女はどんな表情をしているのだろうか。わからない。それはまるで剥離剤をぶちまけたように、ぼうっとにじんでいくのだ。彼女が。薔薇が。何もかもが。
「あっ!? おっさん!」
 がっしりと力強い手が、私の衝動を押さえ込んだ。
 今まさに私は剥離剤の液体が入った瓶を握り締めていたのだ。私の見えている景色を、余すところなく表さんがために。
「いきなりどうしたんだよ。順調に進んでいたじゃないか」
 そう、昨日までは順調に進んでいたのだ。脳裏に映る鮮烈な彼女の姿が、はっきりと見えていたはずだった。だが今はその輪郭がぼやけ、口元がぶれ、ただ幻影が揺らめいているだけ。
「おっさん。とりあえずその瓶を置こう! な!」
 思いのほか強い力で押さえ込まれていて、私の手は動かない。
 私はつい、心のうちをぶちまけた。
「お前には関係ないだろう」
「関係あるさ。だってその絵は……あいつの絵だろ」
 その子供は意味ありげなことを言った。あいつ、とは誰のことを指しているのだろう。まさか、彼女か。彼女をそのような代名詞で呼ぶなど、一体どういうつもりなのか。頭に血が上っていくのがわかる。
 その子供は慌てて手を離した。そして弁解するように言う。
「おっさん、また明日も来るだろ? 来るよな。絶対だぞ」
 そうして無理やり約束を取り付けて彼は去っていった。


 翌日もその子供は姿を見せた。
「またあの絵を見せてくれないか」
 もう来るものか、と思っていたが、やっぱりここに来てしまった。まるであの彼女を知っている風なのが気になったからだ。
 私はのそのそと動き出す。見せてやった。剥離剤の飛沫がかかり、背景の薔薇がいくつかにじんでしまっていたけれど、彼女は無事だった。それを見て安心している自分に気づく。
「やっぱり……」
 彼は意味ありげに呟いた。そして、おもむろにアパートメントの窓を見る。
 そこには信じられない光景があった。
 もう二度と開くことがないと思っていた。その出窓が開いている。そしてそこに、あの女が。彼女がいたのだ。二十年前と変わらぬ姿で。まるで天の使いのように。
 私の手から筆がつるりと落下していった。
 なんということだろう。あの時と同じ姿で、変わらぬ美貌で、私に笑いかけるのだ。あり得ない。そんなことが、あり得るはずがない。これは夢か、現か。この子供が邪な力を使い、魔法でも見せているのか。
 彼の鮮烈な赤い手袋が脳裏にちらつく。ただの子供が、あのようなお道化た衣装を身に纏い、私に近づくものか。そういえば腰に帯びたナイフは、そこらの子供が持つには不釣合いな、装飾がほどこされた妙に立派なものではなかったか。
 ――やはり。
 ただの子供だと見くびっていた。私はたぶらかされたのだ。
「あっ!? おい! おっさん!!」
 そのような声を耳にしたまま、私の意識は深淵へと落ちていった。



「おーい。おっさん気絶しちまったか。大丈夫か?」
 肩を叩かれている気がする。そして、ちょっとやりすぎちまったか、とつぶやく声が聞こえる。
「この場所、覚えがあります。わたし小さい頃、ここに住んでました」
「そっか。お前の母ちゃんはここにいたんだな」
「ええ……。母は昔から、正真正銘の女優でしたから。たくさんのお花に囲まれていました」
 たくさんの花、という言葉を聞いて、またあの光景が情熱的によみがえる。薔薇。百合。カスミソウ。その他名前も知らない色とりどりの花。だが、それもすぐに散っていく。そう、物語は美しい思い出だけではないのだ。彼女がさまざまな男に囲まれ、そのどれもに笑顔で応対していたことを私は思い出す。思い出してしまう。
「うう……」
 私はうめき声を上げる。
「おっさん起きたか。すまん、良かれと思って連れてきたんだけど気絶するとは思わなかった。反省している」
 俺だって少しは反省するんだからな? と彼は意味のわからない論理をぶち上げた。
 彼は芸人だと名乗った。子供でも、魔法使いでもないのだと。
「な。そっくりだろ」
 私は目の前の女をまじまじと見つめた。見られて娘は恥ずかしそうにお辞儀をする。追い求めていたあの玉のような質感の肌も、美しい宝石のような髪も。そこにはあった。
 だが、そこにいる女はあの彼女ではない。におい立つような妖艶な色気が、なにより鮮烈なまでのきらめきが、この娘にはない。私の情熱を奮い立たせるものが、この娘にはないのだ。
「……違う」
 私は声を絞り出す。
「ええ、わたしはミルス。マリーの娘」
「そう、か」
 ため息をつくようにして零した。私は全て悟ったのだ。
 私がこうして一心不乱に彼女の美貌を絵に刻み付けていた頃、彼女は他の男と懇ろになり、子供を儲け、そうして時は過ぎ、そこにはただ醜く歳を取った哀れな老いぼれの男が残されただけだったのだ。
 私がしていたことは、何もかも無駄だった。激情に任せて消しかけた絵をぼんやりと眺める。破いて粉々にまでしてやろうかと息巻いていたあの負の感情すら、今は消え去っている。私にはもう、何もない。
「おっさん……」
「無駄じゃありません」
 その娘が唐突に言った。
「おじ様は……母の生き様を見て、そうしてその絵を残されたのでしょう」
 凛とした強い意志をもった瞳。その表情を見た瞬間、まるで彼女を――マリーを初めて目にした時のような、あの鮮烈なきらめきが襲ってきた。
 再び、ほの暗い炎がともっていくのを感じる。私の枯れかけた心はまだ終わっていない。
 私はその絵を背負い、立ち上がった。



        



「鍵、どうやったら開くんですか。すごいです」
「まあ鍵を開けることぐらい、お手の物だ。昔……」
「昔?」
「いや、なんでもねえ」
 少年がそう呟きながら、手元でごそごそと鍵穴をいじると、あっという間に鍵が開いた。
「――あった。この絵だ」
「わあ……」
 その後、あの男とこのアパートメントの下で出会うことはなかった。彼はどこに行ってしまったのか、あの絵はどうなってしまったのか。ずっと二人は気になっていたのだ。
 男と対面することはかなわなかったが、このアパートメントにとても美しい絵が贈られたという噂を耳にして、そうして少しばかり見せてもらうことにしたのだ。何も物を盗るわけじゃない、見るだけだと無茶な論理を振りかざしながら、彼らはこっそりと館に侵入した。娘の方はためらったけれど、絵を見るという鮮烈な魅力に抗いきれなくてここまで来てしまった。そうして、窓辺に程近くの壁にかけられた絵と再び邂逅したのである。
「ところで、あのおっさんの気持ちがどうしてわかったんだ? まさか魔法か?」
 彼女は優しく微笑む。
「いいえ。そんな気がしただけです」


 その絵は、そのアパートメントに贈られて、今も飾られているらしい。
 あの頃の彼女を知っている者ならば、見目麗しき往年の姿を見て懐かしさと鮮烈な美貌に胸を震わせるだろう。だが、もっと熱心に追い求めていた者は少しばかりの違和感を覚えるだろう。
 艶やかな女の色気ばかりではなく、少しばかり凛とした初々しい少女の面影も付け加えられて、ようやくその絵は完成したのだ。壁にかけられたその絵はにじみ出る存在感と不思議な魅力を放っていた。
 彼女は絵の中で美しく佇んでいる。


(終)
2016.11.28


        


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