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01.プロレス騒ぎ


『勝者ー、ベンケイー!』
 スピーカーから、わぁっと歓声が聞こえる。
 立体映像は、リングの上で両手を挙げ、観客の声に応えているベンケイを映し出している。たくましい胸筋に、汗が吹き出していた。熱気がむわっと伝わる。
 今日の試合は、新興プロレス団体、A.M.T(アーマード・マッスル・チーム)とプロレス業界の老舗、W.P.O(ワールド・プロレスリング・オーガニゼイション)の全面対決という、プロレスの歴史に新たな一ページを加える、そんな記念すべき一歩だったのだ。試合は老舗W.P.Oの押せ押せの一方的な展開で始まり、もう駄目かと思った最終対決、A.M.T所属のベンケイの必殺・パワーボムが極まり、劇的な勝利を収めたのだ。
 しかし、それを見ている者の気持ちは冷めてしまっていた。
 彼女はうんざりしたように、がらくたが積み上げられたせまぜましい部屋に不似合いなリラクゼーションチェアにもたれかかる。椅子は圧力を感じ、背もたれが緩やかに下がった。必然的に宙ぶらりんになった足は、目の前にある机に乗せられ、立体映像の一部が遮られる。膝の上に乗っている猫が、安眠を妨げられたと訴えるように恨みがましい目をした。
 本来なら、観客と一緒に喜びを分かち合っていたはずなのに。さっきまでは、まさに観客と同じように燃え上がっていたというのに。見事勝利を収めたベンケイを素直に祝福できないことが、とても悔しかった。
 キヌエは、申し訳なさそうに背後に立っている男に冷たい視線を投げかける。
 男は、ぼろをまとい、真っ黒に汚れた人を抱えていた。――いや、正確には違う。人の姿をしたようなもの、だ。
 生体人形。その人の形をしたものを、こう呼んでいた。
「いや、あのね……やっぱり、見つけちゃったら、見捨てられないだろう」
 いい訳めいている男の声を浴びながら、キヌエは苛立ちを隠せない。その後の言葉は決まっていた。
「もう、これっきりだから!」
 そう言いながらも、彼は絶対に反省していない。キヌエはそう思っていた。また同じ事を繰り返す。今までもそうだったからだ。
「そうね……あなたはそういう人だものね。でもね」
 キヌエは自分を納得させるために冷静にしゃべっているつもりだった。しかし、いいところを邪魔されたのも加わって、キヌエの怒りのボルテージは上がっていく。
 膝の上の猫が逃げた。これから起こる事態を察知したようだ。
「いつもいつもいつもいつも! そういって犬やら猫やら、がらくたやら何やら拾ってきて! 挙句の果てには生体ですって!? もう、ただでさえうちの家計が苦しいの、あんただって知っているでしょおおおお」
「き、キヌエ、落ち着くんだぁぁぁ」
 さすがにキヌエにも、商売道具である機材を傷物にしないだけの理性は残っているらしい。飲んでいた合成酒を机に叩きつけ、一直線に男に向かう。生体を傷つけまいと、男は慌てて床にそれを置いた。キヌエは彼の手を逆手に掴み、背後に回り込んだ。速い。そのまま、彼の首を抱え込む。
 キヌエ一押しの若手プロレスラー、アンドロイド中沢お得意のスリーパーホールドだ。この技の真価が発揮されるのは、アンドロイド中沢のめちゃくちゃにドーピングされた馬力ならではなのだが、女の腕ではその威力は著しく弱まる。だが、それでも効果はあるようだ。その男――ハヤトの顔色が危険なほどに紅潮する。
 スピーカーから流れる歓声はもはや届いていなかった。それほどにキヌエは集中していた。いや、怒りにまみれていた。
 彼の手がキヌエをタップするが、よっぽど頭に来ていたのか、キヌエは手を緩めない。
「くっ……くるしい」
 彼の手が力なく宙をかく。腕を離したときには既に手遅れだった。彼は膝から崩れ落ちた。

 じきに息を吹き返したハヤトは、キヌエの様子をうかがっていた。
 力関係はいつもこうだ。この家では、嫁のキヌエが頂点に君臨していた。たぶん、この先もずっと関係がひっくり返ることはない。
 でも、彼はめげない。
 ハヤトは、後ろからそっと擦り寄って、キヌエを抱きしめた。
「ごめんって。愛しているよ、キヌエ」
 こんなクサイ台詞が惜しげもなく披露される。本人は至って幸せのようだ。
 日々のいさかいすら、彼らにしてみればコミュニケーションの一言で片付けられてしまう。のんきなのはハヤトだ。愛されているなあ、と感じてしまうほどに彼の懐は深い。
 彼らの喧嘩には誰も口出しできない。犬猫も、事の成り行きをじっとうかがっている。嵐が過ぎ去れば、すぐに元のさやに収まることを彼らも知っているからだ。
「ううん。私こそ、ごめんなさい」
 この日もそう……なるはずだった。
「でもね」
 キヌエの低い声色に、ハヤトの背筋が凍る。
「生体は元のところに返してきなさい」
「いや、だからそれは」
 燃え上がった火種は消えそうになかった。


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