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19.終わりの始まり


「いいんだ」
 動かない腕というのは不思議なものだった。自分の体の一部ではない、異物がそこにぶら下がっているのだ。バランスがうまく取れず、立ち上がるのにも苦労した。
 のた打ち回ったせいで服が砂まみれだった。体中の関節という関節が疲労を訴えている。
 しかし、ハヤトの頭脳は久しぶりに晴れ晴れとしていた。あの神経を蝕むような痛みは消え去ったのだ。
「――いいんだ」
 温もりを感じながら、もう一度言う。
 ハヤトの腕の中の温かいもの――キヌエが、ぶるっと震えた。
 やがて、それが嗚咽だとわかったとき、ハヤトは少しどきっとした。キヌエはめったに涙を見せない。ましてハヤトの腕の中で泣くなんて、まさにおおごとだった。
 まあ、無理もない。絶望を前にして、あれだけの大立ち回りをしてみせたのだ。
「……怖かった」
「うん」
「……もう、死んじゃうのかと思った」
「うん」
 キヌエの独白めいた呟きに、ハヤトはいちいち相槌をうって。そっと頭をなで、彼女の頬をぬぐう。
 あれだけ冷静に、強気に振舞っていたけれど。いつも十字固めをしたり首絞めたり、ハヤトを固めて落とすこともあるけれど。やはりキヌエは普通の女性なのだ。
「大丈夫だよ。もう終わったんだ」
 終わらせたのだ。キヌエが、全て。
 彼は物言わぬ鉄の塊となったフウカを眺めた。彼女は――彼女だったものは、首が直角に曲がり、白い煙を吐いて、地面に直撃したままの不自然な格好で停止していた。
 最初に拾ってきたときとは違い、綺麗な顔をしている。けれど動いているフウカを知っているからか、余計に痛々しかった。さむざむとした空気が走り抜ける。
「ハヤト――マスクは」
 ようやく嗚咽もやみ、落ち着いてきた様子のキヌエに指摘されて、ハヤトはマスクをしていないことに気づく。鼻が慣れてしまって、すっかり異臭は感じない。ただ口の中のざらざらした感触と、胸のむかつきが残っていた。外の空気をだいぶ吸ってしまっている。
「ああ」
 マスクを探そうとして、そういえば盗賊たちはどうしたのだろう、と思い当たる。彼らはすっかり風景の一部と化し、砂にまみれて散り散りばらばらに倒れていた。息をしているかどうかまではわからない。
 様子を見に近づこうとするハヤトをキヌエが静止する。いや、寄りかかるものがなくなってもつれあう、と言った方が正しいのかもしれない。えへへ、と変な笑みがこぼれる。
「キヌエちゃんが俺を頼ってくれるなんてなあ」
「うるさい。――もうちょっと、掴まっててもいいでしょ」
 だが、さすがにキヌエを抱えて近づくわけにはいかなかった。いきなり息を吹き返して彼女を人質に取られでもしたら、それこそ、死んでわびなければいけない。
 ハヤトはキヌエから手を離して、マスクを拾い上げた。
 マスクの中に多少砂が入り込んでいたけれど、このまま外の空気を吸い続けるよりはマシなはずだ。
 マスクを装着しながら、複雑な思いでフウカを見る。それはかわいらしいフウカのままだ。ただ、首がねじれていることを除けば。ただ、白煙を上げていることを除けば。それはかっと目を見開いたまま、虚空を見つめている。無念も恐怖も、そこにはない。ただ静止した生体の顔がそこにあるだけだ。
「悪い。ちょっと待ってて」
 ハヤトは彼女の元へ行き、そして抱えた。いくらなんでも、地面に頭をつけ、くの字型に体を折り曲げたままの彼女を放置するのは忍びなかった。
 首の関節が壊れている。ハヤトの生身の右手では、彼女の首を真っ直ぐに矯正させることができなかった。義肢が動けば、無理やりにでも真っ直ぐに出来ただろうに。
 彼はフウカを何とか仰向けに寝かせると、そっとその額に口づけた。


「――で?」
「……うん。えっと」
 部屋の中の作業台の上には、元フウカだった物体が転がっている。
「なんでここにフウカがいるのよ」
 それはまるでいつかどこかで見た風景であった。頭痛を覚えながら、キヌエはハヤトに食って掛かる。
「これで終わりでしょ!? 終わりのはずでしょおおお!? なんでアンタはまた連れてきちゃうのよこのイカレトンチキが」
「キヌエ、落ち着くんだぁ」
「コレを見てどこをどう落ち着けって言うのよ!」
 キヌエは興奮していた。そう、全てはハヤトがフウカを連れて帰ってきたことに起因する。
 現実は非情なものだった。犬猫たちは無事だったものの、興奮状態でなだめるのに手を焼いたし、電気が止まっていて、空調はもちろん明かりさえもつかなかった。それに積みあがったガラクタが見事に雪崩を起こしていた。消えたデータも戻ってくるわけではない。
 良心も痛まないどころではない。生体殺しは、本来なら大罪なのだ。
 それに帰ってきてからのハヤトの態度も妙だった。この惨状に対して動じるふうでもなく、逆に面白がっていたようであったし、それ以上にいつもに増して従順で聞き分けがよかったのである。
 彼はガラクタの中から旧式の懐中電灯を取り出して、顔の下から明かりをかざした。
「ほぉらキヌエちゃん、べろべろばぁ」
「馬鹿っ」
 どんな状況も楽しむのはいいのだけれど、まるで子供みたいだ。すぐに止めさせた。
「だいたいあんたが最初に生体を拾ってきたから……何笑ってるのよ」
「いやいや。なんでもないよー。うふふ」
 彼女は気味が悪そうにハヤトを見つめる。
「キヌエが俺を叱ってくれるのは、俺が心配なんだからなんだよね」
 などと目を輝かせて言うものだから、怒りのやり場がない。
 彼は感激したなどと言いながら、何かにつけてべたべたとくっついてくる。しかしキヌエには心当たりがなかった。あの時に何か口走ったような気もするが、思い出したくもない。
「……はあ。やめた。調子が狂うわ」
 キヌエは合成酒を取り出した。既に冷凍庫の中身は崩壊を始めているが、対処の施しようがない。この酒もあまり冷えていないが、仕方ない。もう何でもいい、飲んでしまいたかった。
 しかし先ほどからの熱い視線が気になった。そう、まるでミチコが何かを訴えるときのような黒いまなざしが、彼女に注がれている。
「何」
「うん、あのね」
 その目がすっと伏せられる。
「うん。……で、何」
 数度のこんなやり取りの後、これは何かあるな、と多少いらだちをもってキヌエが身構えたところで、ようやく彼は口を開いた。
 だが、わざわざこんなやり取りをするということは、絶対に後ろめたいことだ。絶対聞いてやらないとキヌエは腹積もりを決めた。
「……ええと。うまくすればこれを何とか直せないかなと」
 ようやく本音をのぞかせたハヤトの台詞をさえぎるように、ぷしっと缶の蓋が勢いよく開く。
 案の定だ。キヌエは豪快に酒をあおった。
「……キヌエちゃん、聞いてる?」
 タイミングの悪さにハヤトは内心で舌打ちをした。
 損傷具合はわからないけれど、程度によってはフウカを修復することも不可能ではないはずだった。そのためにはキヌエの協力が必要なのだ。しかし、彼女をもう一度説得しなおせる自信が、ハヤトにはなかった。
 嫌な汗をかきながら、ハヤトは彼女をなだめる。自棄酒が始まった後は大抵ろくなことがない。まして、キヌエは酒に強くないというのに。
 ハヤトの予想は的中する。すっかり悪酔いしたキヌエがハヤトに絡んできた。目が座っている。
「ねえ。生体愛好者のことをなんていうの? ドールコンプレックス?」
「ん?」
「死体愛好者のことは、ネクロフィリアよね」
「んん?」
「じゃあ破壊された生体を愛好する人のことは?」
「な、何言ってるの」
 脂汗が吹き出る。
 ハヤトはない頭を必死に回転させる。こういうときは――そう、試されているのだ。
 ハヤトは呼吸を落ち着けると、キヌエに向き直る。
「何を言ってるんだキヌエ。俺は、例え君が犯罪者であろうとも君を愛すぜ」
「……だから?」
「もし仮に俺がそういう性癖に目覚めたとしても、だね」
 キヌエは不機嫌な様子を崩そうともせず、缶のヘリでハヤトの頭を小突いた。どうやら不合格だったようだ。
「馬ー鹿」
 彼女はふらふらと台所に立ち、秘蔵のスモークベーコンを取り出す。
「あっ! それは俺の大事な」
「うるさいっ」
 ハヤトはベーコンの開封を静止すべく、キヌエの後ろから抱きついた。しかし抵抗にあう。無遠慮に胸を触る右手に、彼女は噛み付く。
 そんなこんなで争奪戦の末ベーコンは開封され、しょぼくれながらハヤトもその味を堪能したのだった。

 すっかり泥酔したキヌエがベッドの上で目を覚ましたのは、翌日の昼のことであった。すぐ隣では、ハヤトが寝息を立てている。
 彼の腕をかいくぐり、痛む頭を抑えてリビング兼作業部屋に入ると、そこには昨日のままのフウカがそこに眠っていた。
「――やっぱり、夢じゃない、か」
 壊れた生体。それは紛れもない現実だった。


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