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山育ちと都会の猫 1
綺麗にアイロンの入ったシャツ。スカート。パンプス。まるで文明的で女性的なものの象徴とも言えるこの格好は、この場所ではほとんど見ることの出来ないものだった。大抵の男は汚れてもいい丈夫なものを着ていたし、浮浪者に至っては、ぼろ同然だった。そして土地柄、女性はほとんどいない。だからこそ、その姿は余計に目を惹いた。
彼女はぐったりとしている。歳は二十代半ばだろう。化粧っ気のほとんどない素顔に苦悶の色がわずかに浮かぶ。可憐だった。床に座り込み、荒い息を吐いている。すらりとした足がスカートから伸びている様を、ハヤトは見つめていた。
ただ惜しむらくは、彼女がひどくやつれてしまっていることだった。目は落ち窪み、くまが浮かび、肌は病的に白い。
彼は迷っていた。
倒れていた彼女を外から連れて帰ってきたときは、そのまま勢いでベッドに寝かせておいた。そこには下心は――まあ、あることは否定しないが、ただ行き倒れた者を助けようという心が何より優先された。
しかし今は事情が違う。
彼女とは既に言葉を交わし、もう名前も知っている。なおかつ、ハヤトの家、つまり男の家だということを知りながら彼女は気を失ったのだ。
それは、据え膳というのではないか――と、良からぬ考えが、ハヤトの頭の中でぐるぐると回っていたのだった。
なにより彼女は美人だった。こんな機会は、一生に一度とないかもしれない。
彼は自分自身の性衝動と戦っていたのだった。完璧に主導権はハヤトの手の内にあった。卑怯な手段だ。それはわかっている。
「――とりあえず、運ぶか……」
決めた。ベッドに運び込む。この硬い床に放置したままでいいわけがない。それからどうするかは、また、そのときに考えればいいのだ。
ハヤトは彼女の腕の下から背中に、自らの腕を通す。そのままひょいと抱きかかえた。
――柔らかい。
柔らかくて、細くて温かい。心地よい重みが体に伝わってくる。
だが、そんな役得に浸れる時間はほんのわずかしかなかった。
彼女は身じろぎした。ずるりとバランスが崩れる。ハヤトから逃れようとしているのだ。それはもはや本能ともいえる行動だった。
「あっ、いや、ちょっと」
思わず我に返る。決して触りたいから抱えているわけではないと自らに必死に言い訳する。病人を介抱しているのだ。自分には、正当な理由がある。
だが、当の病人の方は、そう思っていないようだった。そんなに信用できないのか、とハヤトは少し傷ついた。先ほどまで葛藤していたことは棚上げである。
「何もしないから」
そう言うしかなかった。無論、何もしない保障なんてあるわけがない。だが、ほんの少し、可哀相だという心がハヤトに芽生えてきたのだった。
言ってしまった以上は、裏切るわけにはいかない。
ハヤトは彼女を、改めてそっと抱きかかえた。ハヤトの思いが通じたのか、今度は彼女も抗おうとしなかった。そのまま、ゆっくり廊下を進む。壁や積み上げたガラクタにぶつけないように、細心の注意を払った。
そして彼女をそっとベッドに下ろす。先に居座っていた猫のキキョウは、不満げな顔をしてベッドから飛び降り、一声鳴いた。
彼女はまるで胎児のようにうずくまる。呼吸が荒い。顔面は白というより蒼白に近い。苦しそうな呼吸が響いた。
背中をさすってやりたいと、ハヤトは思った。しかし、そうしたらまた嫌がられてしまうだろうか。ハヤトは手を伸ばすことが出来なかった。
「やっぱり、医者に診てもらわないと……いや、でも」
ハヤトはあの悪友の顔を思い浮かべ、ため息をついた。気が進まない。彼を呼ぶと何を言われるか、そしてどうなるか、うんざりするほど知っていたからだ。
だが、彼女をあのまま放っておくわけにはいかない。彼女からはまるでチューブから空気が漏れているような呼吸音が聞こえ、そして時折背中を丸くしたまま咳き込んでいる。山の空気にやられているのだろうか。
ハヤトは居間に戻り、耳にイヤホンを突っ込んだ。ボタンを押し、程なくして通話が繋がる。
「ムラ? 頼みたいことがあるんだ」
『お断りだ』
ハヤトはそれを無視して言葉を継いだ。
「あのね。ちょっと診て欲しい子が……いる、んだけど」
『子っていうのは何だ。今度は犬か。豚か。それとも猿か。俺は動物の医者じゃねえ。あとそう簡単に診ろって言われてもな』
「……女の子なんだ。人間の」
『よし行こう』
有無を言わさず通話は切れた。その下心丸出しの返答から、ハヤトはムラサキが彼女に触診をする様をうっかり想像してしまい、頭を抱えた。とてつもなく間違った選択をした気がしてならなかった。
案の定、連絡をしてからすぐにムラサキは飛んできた。
外の埃を落としながら、その医者は饒舌に語った。犬猫はハヤトの後ろから、警戒心をむき出しにして眺めている。犬猫にとってムラサキは、注射をしたり薬を飲ませたり、嫌なことをする生き物でしかないからだ。
「人間の女の子だなんて、どこで見つけてきたんだ? 『女の子』という名詞は、十五か? 十六か? まあぎりぎり十八までだな。二十歳以降はない。絶対にない」
「……わかってた。こうなることはわかってたよ俺は」
「ふん。わかっていても俺を呼ばなきゃいけないなんて皮肉だな。で、どうなんだ。美人か? やったのか?」
下卑た質問攻勢に押され、まだ何もしていないことを白状すると、ムラサキの目が意味深な笑みに変わった。
「で、どこにいる? 寝てる、だって? ……いいか、これはチャンスだ。こんな好機を逃してどうするんだ! ハヤト、男としての矜持はあるのか」
「ぐっ……いや、あるよ? あるけどもさ、それとこれとは」
話が違うんじゃないかと言ったが、一笑に付された。
「俺が背中を押してやろうか。さあ行け」
「お前、それでも医者か?」
「もちろんだ」
ムラサキは親指を立てた。ハヤトは頭を抱える。そして強引に背中を押される。
「やーめーろって……――あ」
ハヤトの背筋が凍りついた。
きっちり閉めたはずの、家の奥に続く廊下の扉がかすかに開いている。
「ん? どうしたよ」
にやにやしながら背中を押していたムラサキも、ワンテンポ遅れてハヤトの挙動に不審な顔をし、そして同様に凍りつく。
その扉の隙間から、眉根を寄せて不信感をあらわにした冷たい目がのぞいていた。言わずもがな、それは話題の張本人。キヌエであった。
しばし、痛々しい沈黙が場を支配した。
緊張感に耐えられず声を発したのはハヤトだった。
「ご、ごめんね。うるさかった?」
彼女はかすかにうなずいたように見えた。
「えっと……いつから聞いてた?」
「……男としての矜持、から」
「そっか」
軽く装ってはみたものの、内心は「もうオシマイだ」という言葉がぐるぐると回っていた。まさか察しがつかないような年頃じゃないだろう。
これでは嫌われてもしょうがない。ハヤトの淡い感情は、早くも打ち砕かれようとしていた。
ハヤトはゆるゆる部屋を見渡すような振りをして、彼女から視線を外した。そしてがくりと膝を落とし、そこに控えていたミチコにしがみついた。ミチコはくぅん、と鼻を鳴らし、大人しく呼吸をしている。相変わらずのふかふかな毛並みに癒されながら、しかしハヤトは先ほどの肉感的な感触が忘れられなかった。あれが、女の体というものなのか。
だが。彼女と上手くやっていく未来が頭の中で続かない。何度シミュレーションしても、冷たい目でなじられてエンドであった。出て行ってほしくはない。どうしたらいいのだろう? まるで挽回できる気がしない。
こんな感情は初めてであった。息苦しさを覚えて、ミチコをぎゅっと抱きしめた。
ハヤトがミチコに抱きついて自らを慰めている間、ムラサキはずいと扉の方へ進み出た。それまでのふざけた態度をさっと隠して、きりりとした表情を作ってみせた。扉の向こうで、す、と彼女が一歩引くのがわかる。明らかに警戒されている。しかしそれに負けてはいられない。ずいと扉に向かって手を差し出す。
「初めまして。私は医者のムラサキと申します。本業は外科ですが何でもやっております。噂どおりお綺麗な方ですね」
彼女はそれに答えず、無言で扉を閉めた。
あの時のムラサキの印象はサイアクであったと、キヌエは後に語っている。
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