type:D-0004

BACK NEXT TOP


山育ちと都会の猫 2


 彼女が去った後、部屋の中では小競り合いが始まっていた。
「どうするんだよ。怒っちゃったじゃないか」
「いやあハヤトよ。あれはいい女だな! 美しいことは素晴らしい。彼女の診察なら謹んでお受けしたい。いやむしろやらせろ」
「聞いてんのか?」
 彼の鼻息は荒い。反省の色はなく、あんなふうに拒絶反応を示されてもなお、彼は自分の欲望を垂れ流し続ける。ハヤトはげんなりする。
「あのさ、今日のところは帰ってくれる?」
「何を言っているんだ。俺は忙しいんだぞ。呼びつけるだけ呼びつけておいて、何もせずに今更おめおめと帰れるものか」
 論理が破綻している。そう思うが、それに突っ込んだところでどうせ言いくるめられるだけなのはわかっていた。
「じゃあさ。百歩譲ってこのまま続行するとして、誰が呼びに行くの」とハヤトが言うと、ムラサキは笑顔でハヤトの肩を叩く。
「俺かよ!」
「任せたぞ。その代わり、診察は任せろ。餅は餅屋、だ」
 確かにムラサキが説得に当たっては、まとまるものもまとまらなくなる。しかし、いろいろと納得がいかなかった。
 ハヤトはため息をついた。

 ムラサキに追い立てられ、意を決して扉をノックすると、ややあってから「……はい」と低い声が聞こえた。
 ハヤトはそっと扉を開ける。彼女はベッドの上で毛布をかぶっていた。上体を起こし、顔の半ばまでを毛布で隠すようにかぶり、そして、警戒するようにこちらを見ている。
 どきりとする。
 その瞳は、暗いブラウンの色をしていた。
「大丈夫? さっきはごめんね」
 部屋の入り口で、ハヤトは声を掛けた。自分の部屋にもかかわらず、それ以上足を踏み入れることがためらわれた。
 彼女が座っているのはもちろん、ハヤトのベッドだ。自分のベッドに女の子が座っているのを見るのは、なんとも奇妙なものだった。胸がざわつく。
 彼女は視線を外さないまま、かすかにうなずいたように見えた。
 会話が途切れる。
 彼女がこちらを警戒しているのはわかっている。しかも先ほどの悪ふざけを聞かれてしまったのだ。嫌われてしまったのだろうか。彼女の視線からは、表情が読めない。おかげで、一歩を踏み出すことが出来ない。
 いや、既に嫌われているのかもしれない。もしそうだったとしても仕方ない、という考えがハヤトの頭の片隅に巣食っていた。
 さて、どうしたものか。迷っているうちに、キヌエが口を開いた。
「あの人――」
「ああ、ムラサキのこと? ごめんね、ああいう奴なんだ」
 彼女は口を尖らせた。
「あの人、医者なの? 本当に?」
「……うん。それは本当だよ」
 ハヤトは苦笑した。確かにそう思われても仕方がない。彼と組んで、義肢の接合をしていること。そんなことをとりとめなく説明する。
「でね。出来れば――看てもらったほうがいいんじゃないかな、と思うんだけど」
「見るって何を」
 彼女の明らかに棘のある言い方に、ハヤトは狼狽した。
「あ、いや、怪しい意味じゃなくてね! 具合悪そうだから」
 彼女は渋い顔をして黙り込んだ。
「だ、大丈夫だって。悪いようにはしないと思うよ――たぶん」
「たぶん……ね」
 彼のあやふやな物言いに、キヌエは毛布の裾を引き上げて身をすくめた。顔の下半分までを隠し、伏せたまつげが長く映える。
 失言だ。そりゃそうだろう、こんな不安定な言い方をしたら、誰だって不安になる。となれば理詰めで説得するしかない。
「でもね、山の空気は体に障るから。一度診てもらったほうがいいと思う。まあ、ちょっとアヤシイ奴なんだけど、腕は確かだからさ」
 キヌエは毛布に顔をすっぽりうずめたまま、しばし考え込んだ。そして、ハヤトを上目遣いに見た。
「……やっぱり?」
 視線がぴたりとあった。
 不意打ちだった。その動作があまりにも可愛くて、ハヤトは顔を赤くした。

「待ちわびたぞ、ハヤト」
「ごめんごめん」
 居間兼仕事場の扉を開けると、そこにはぎらぎらした男が待ちかまえていた。
 彼から発せられているぎらぎらとした欲望の塊に、ハヤトは圧倒された。自分は間違ったことをしているんじゃないか、もしかしたら、彼女を危険にさらしていることになるんじゃないか。そんな思いが一瞬頭をかすめた。だが、ここで立ち止まったら負けだ。
 普段はあんな口を叩いているけれど、長年の仕事仲間を信じないでどうするんだ。ハヤトはぐっと部屋の床を踏みしめる。
 振り向くと、キヌエがついて来ていない。彼の一瞬の気の迷いを敏感に察知したのか、彼女は扉の前に立ち尽くしたまま。慌ててハヤトはフォローに向かう。
 ハヤトは努めて明るい声を出した。
「大丈夫だって!」
「……うん」
 エスコートするように手を差し出して、それが無骨な義手であることに気づき、慌てて引っ込めた。それに誘われたキヌエの手が行き場を失う。
 ハヤト自身はこの手を気に入っている。だが、彼女には気味悪がられてしまうのではないだろうか――何より、先ほど触れられるのを嫌がられてしまったぶん、ハヤトは臆病になっていた。それでつい、手を引っ込めてしまった。自らの間の悪さを呪わずにはいられない。
 結局、キヌエの背を抱くようにして、何とか彼女をムラサキの前まで誘導する事が出来た。
「じゃあ……始めようか」
「……お願いします」
 藪医者の眼前へ連れてこられて、観念したのか、彼女はうつむいたままつぶやいた。その様子にムラサキは満足気にうなずき、そしてハヤトに視線を移す。
「な、何だよ」
「お前はあっちだ」
 彼は無遠慮に扉の外を指さした。
 えっ、と声が出た。それの意味することぐらい、ハヤトにだってわかる。
「いやここ、俺んちなんだけど」
 それにこの場から離れたら何をされるかわかったものではない。先ほどの下劣な会話を聞かれているというのに。彼は意に介していないようだった。毎度ながら、ムラサキの胆力には呆れかえる。
 しかし、そんな考えは、彼のこの発言によって一蹴された。
「馬鹿め。お前はうら若き乙女の診察をのぞくつもりなのか? それはいくらなんでも悪趣味というものだろう」
「うっ……」
 確かにその通りかもしれない。しかし、納得がいかなかった。あれだけ悪ノリしていたのに、まるで自分だけが悪者にされたようだ。
 それに、一抹の不安が残る。
 彼らを二人っきりにしていいものかどうか――。そんなことをぼんやり考えながらも、しかし解決策が見つかるはずもなく、ハヤトは追い出されるようにミチコと居間兼作業部屋を出て、廊下に座り込んだ。そのまま扉にもたれ掛かる。
「ミチコ〜……」
 名前を呼ばれてミチコはハヤトに飛びついた。狭い廊下で、愛犬と取っ組み合いになる。しかしハヤトはどこか上の空であった。
 こうしているうちにも部屋の中では、彼女が診察されている。いや、診察という名目で――何が行われているのだ。余計な妄想が膨らみかけて、それを追い出すようにハヤトは頭をかきむしる。駄目だ。考えるな。
 気を紛らわすために辺りをうろつくと、ハヤトの部屋のベッドで、むっつりとした顔のアズサが丸くなっていた。ハヤトは無抵抗のその猫を抱き上げる。彼女の毛皮と、その下に存在する骨。その呼吸と脈拍と、ごろごろ言う喉の音。くすぐったい髭。生きているものの感触を感じながら、ハヤトは再び廊下に戻り、待ちぼうけた。その隣にミチコが寄り添う。
 愛猫の名を呼ぶ。と、にゃーん、と枯れた声で返事が聞こえる。
 ぼんやりと思う。キヌエの何かにおびえた目、警戒する視線は猫に似ている。とりわけ、アズサを拾ってきたばかりの頃と彼女の印象が重なっていた。
 二人が何かを話している声が聞こえる。この扉一枚の距離が遠い。
 彼女の体調を鑑みて自分が勧めはしたものの、内心気が気ではなかった。服を脱がされ、一糸纏わぬ姿となっているのではないだろうか。と考えたところで彼女の一糸纏わぬ姿を想像してしまい、ハヤトの顔は熱くなる。あの藪医者にセクハラされていやしないだろうか。いや、拒んでいるのならまだいい。もし彼女がそれをあっさりと受け入れていたら。悪い妄想が頭をよぎる。


 軽い診察というには長い時間が過ぎて、唐突に扉が開いた。
 彼女はうつむいていた。隠そうとしているけれど、彼女の瞳、そして頬には明らかな――涙の跡が残っていた。
 ぎょっとする。
「どどどどうしたの」
 ハヤトは顔をのぞき込む。彼女は涙を見せまいとするように顔をそらした。
「なんでもない」
 なんでもないわけがない。しかし彼女はそれを語ろうとしない。彼女は懸命に涙を拭い、その痕跡を消し去ろうとしていた。ハヤトにはその理由がわからない。
 ハヤトの手が、空しく宙をかく。彼女は自分以外の全てを拒もうとしているように見えた。その背中に、その頬に、触れることがためらわれた。
 結局、その涙が完全に消え去るまで、彼はじっと座って待つしかなかった。
「ムラサキに、何か言われたの」
 何かされたの、と聞きたかったが、さすがにそれをストレートに聞くのははばかられた。ましてや自分も初対面同然なのだ。ムラサキに何かをされたところで、ハヤトに正直にこぼすとは思えなかった。
 案の定。彼女は返事をしない。
 困った挙句に、ハヤトは今まで抱いていたアズサを渡した。抱っこしてると落ち着くから、と。そのシマ猫は迷惑そうな顔をしていたけれど、不慣れな手つきのキヌエに渡っても、それでも大人しく抱かれていた。
「……よし。文句言ってやる」
 あとついでに一発殴ってやる。
 少なくとも、彼女とムラサキの間に何かがあったんだろう。何かがあって、ムラサキがキヌエを泣かせたのだ。もうもうと怒りが込み上げてくる。
 血気盛んに居間へ歩き出すと、涙交じりの声で、違う、と彼女が言った気がした。じゃあなんなんだろう? 答えが遠のいた気がする。


「どういうこと!?」
 その男は、ハヤト宅の合成酒を勝手にあけていた。
 ハヤトは彼に詰め寄る。聞きたいことはたくさんあった。言いたいこともたくさんあった。言葉にならない気持ちが渦巻いている。
 扉の外では、猫を抱いたキヌエがそっと場をうかがっている。彼女の視線を意識しないようにして――失敗する。自分でもおかしいのはわかっていた。
 そのような状況にあっても、目の前の男は余裕で一杯をあおった。それがまたハヤトを苛立たせる。
「人聞きが悪いな、ハヤトよ。この俺がそんなことをするわけがないだろう?」
 そんなことを言われてもにわかには信じられなかった。常日頃からそんなことを口にしているじゃないか。やっぱりこの男に任せたのが間違いだったのだ。
「彼女に何をした」
「必死だな、ハヤト=アカサカ。誓って言うが、俺は彼女に手を出したりしていないぞ。ただ少し診察して、少し悩みを聞いただけだ。それだけだ」
「それだけ?」
 ムラサキは尊大な態度を崩さない。
「医者には守秘義務というのがあってだな。これ以上のことを聞きたければ本人から直接聞きたまえ」
 じゃあ何で彼女は泣いていたのか。泣かせるようなことをしたのではないか。ハヤトの疑念が再びよからぬ方向へ渦巻いていく。
 ムラサキがニヤニヤ笑いを浮かべながら近寄ってくる。そしてぴしりと親しげにハヤトの腰を叩いた。
「おい、ハヤト=アカサカ。惚れているのか?」
 図星だった。
 答えに窮し、黙りこくる。
 それが答えとばかりに気をよくしたムラサキは、強引に肩を組んだ。そして、ささやき、というには幾ばくか大きな声で耳打ちした。
「いいか。特別に教えてやろう! 彼女の下着の色は」
 かっとなった。全身の血が逆上したようだった。その言葉を最後まで聞く前に、体が勝手に動いていた。
 無骨な鋼鉄の塊が、ムラサキの顔面にヒットした。めき、と嫌な音が響いた。ムラサキの顔が奇妙にゆがむ。
 こんな風にハヤトが人を殴るのは初めてであった。無論ムラサキも予想だにしていなかったに違いない。
「あっ……ごめん」
 息を飲む音が聞こえた。
 それにつられて我に返る。猛烈な後悔の念が襲ってくる。いくら何でもやりすぎた。
 彼女の視線を背中に感じながらも、振り向くことが出来ない。なんだかとてつもなく恥ずかしかった。
 ムラサキはしばらく動かなかった。
 この後、彼が帰るまでの間、ムラサキの恨みつらみのこもった説教は数時間続いた。ハヤトは反省の意を表して、それを正座で聞いたのであった。終わった後、痺れる足をこらえて振り向いたら、キヌエはとっくにいなくなっていた。

 そしてその日、結局彼女の涙のわけを聞けることなく、ハヤトは同じ屋根の下での初めての夜を悶々と過ごしたのである。

BACK NEXT TOP


Copyright(c) 2006-2010 mizusawa all rights reserved.