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山育ちと都会の猫 3


 目が覚めたら、そこは居間兼仕事部屋であった。
 リクライニングとは名ばかりのシート。体中がきしむように痛い。
 ハヤトはゆっくりと伸びをした。
「……はあ」
 あくびともため息ともつかない声を出して、ようやく頭が覚醒する。
 何故こんなところで眠っていたのだろうか、と一瞬考え、その原因にたどり着いた瞬間、ハヤトの顔は赤く染まる。
 彼女が家にいるからだ。
 昨晩はキヌエに自分のベッドを明け渡した。そして自分はカッコつけて居間のリクライニングチェアを寝床と定め、半ば強引に眠りについたのだ。
 無論、同じ屋根の下で男と女二人きり。良からぬことを考えないわけではなかった。むしろハヤトの頭の中ではそのことでいっぱいだった。
 しかし、初対面の女性にそんなことをやらかすほどハヤトに度胸は備わっていなかったし、そして何より、昨日起こった出来事を慮ると、そんな下卑た真似など出来るはずがなかった。
 当然、眠りにつくまでには相当の時間を要したのであった。

 ハヤトは寝癖のついた頭をかく。そして食料庫から合成食を取り出した。人間に必要な栄養素を固め、適度に味付けされた、素っ気の無い代物である。ごそごそと袋から取り出してかじりつく。
 コーヒーを淹れる。粉末を出して、給湯機のボタンを押し、そして湯を注ぐ。相変わらず泥のような味がする。豆の比率が何パーセントか、など、考えないようにしている。
 ハヤトは苦々しい思いで、昨日の出来事を思い出す。キヌエのにじむ涙。笑うムラサキ。そして初めて感情で人を殴った。後悔だらけだった。
 いったいあの扉の向こうで、何が起こっていたのか。それを彼女に問いつめていいものかどうか。
 いい加減起きてこない彼女を起こしに行くべきかどうか――。
 同じ疑問がずっと頭の中を回り、ようやく諦めて仕事をやろうかと逡巡したところで、壁の向こうから悲鳴が聞こえた。
「なっ、何?」
 それは紛れもなく、彼女の声であった。
 ミチコが吠えているのが聞こえる。ミチコの声を聞いた瞬間、ハヤトは壁の向こうで何が起こっているのか、何となく想像がついてしまった。
 案の定、廊下を出たら、そこには予想通りの光景があった。ミチコが、キヌエに襲いかかっている。前足をかけられて、今にも押し倒されそうになってキヌエは悲鳴を上げていた。
 いくらミチコが穏和な性格だとはいえ、大型犬なのである。ハヤトから見るとほほえましいじゃれつきなのだが、不慣れな人間は恐怖を覚えるだろう。
 キヌエが顔をあげる。視線が合う。どうしたらいいのかわからない、と、その目が言っている。頬をぺろんとなめられて「ひゃあ」と声をあげる。
「ミチコ! 止めろ!」
 ハヤトは間に割って入る。
 ミチコの前足を持ち上げ、彼女から離す。ミチコから解放されて気が抜けたのか、キヌエはぐらりと傾いた。そのまま壁に寄りかかる。手を貸してやろうとしてミチコを片手で支えたところ、バランスを崩した。そのままどすんと壁にぶつかり、ガラクタの山が揺れる。
「大丈夫?」
「……え、ええ」
 無様だった。ミチコが嬉々としてハヤトの顔をなめている。
「えへへ、これじゃどっちが心配されてるかわかったもんじゃないね……こら、ミチコっ」
 心配そうに見つめていた彼女の顔がひきつる。ミチコは執拗にハヤトの口周りをなめるが、ハヤトはたしなめながら引きはがした。ミチコは物欲しそうに「きゅうん」と鳴いた。
「こらー。駄目だぞ」
 ハヤトはそう言いながら、ミチコのふさふさの首周りをくすぐるようにかき回した。当のミチコは叱られているのが伝わっているのかどうか、首をかしげて、はっはっと息をしながらつぶらな瞳で見つめている。
 ミチコをこころゆくまでになで回したことに満足したのち、そんな一部始終をキヌエに見られている事に気づく。極めてなんでもない風を装って、ハヤトは言った。
「おなかが空いているんだよ」
「そ、そう」
 そわそわするミチコをなだめながら、ゆっくりと立ち上がる。
「じゃあ、ご飯にしよう。キヌエもおなか空いてるでしょ?」
 ミチコをキヌエの方に寄っていかないよう誘導しながら、居間兼作業部屋へと追い立てた。そしてキヌエを手招きする。彼女はこわごわとついてくる。
 昨日の酷い有様に比べたら、今日の出だしは上々といえた。ミチコのおかげかもしれない。


 餌を用意していると、どこで騒ぎを聞きつけたのか、居間兼作業部屋には家中の犬猫が集まってくる。彼らに取り囲まれ、この部屋はあっという間に戦場と化す。それを何とかなだめながら、ハヤトはご飯を用意する。
 ハヤトにとっては日常。しかしキヌエにとっては、まるで動物園でも眺めているようだった。しかも、ここには柵などないのだ。
 コトリと餌皿を並べると、ミチコたちは一斉に食べ始めた。
 犬も猫もみな一様に並んでがつがつと餌を平らげている。それらを眺めるキヌエを見て、ハヤトは少し落胆する。彼女は扉の向こうから、まるで身を守るように様子をうかがっているのだ。
 せめて部屋に入ってきたらいいのに。その距離が歯がゆかった。
「キヌエもさ、何か食べる?」
「いえ、結構」
 やはりと言うべきか。身を固くしたまま、彼女は固辞した。さっき距離が縮まったように感じたのは気のせいだったのだろうか。
 ちょっと心が折れそうになりながらも、それでも説得を試みた。
「いや、でもおなか空いてるでしょ。昨日から何も食べてないんだし」と言うと、彼女はおなかを押さえ「……空いてる」と言った。
「じゃあ、座って。あんまり大したものはないんだけどさ」
 自然と笑みがこぼれた。そして、ハヤトは食料を広げていく。
「ええと、これはコーンでしょ、チョコでしょ、それから納豆。あとはめんたい味、チーズ、たこやき味」
 合成食をひとつひとつ指さして説明する。そして缶詰。パウチされた保存食。本当にたいしたものなどない。
 ろくに吟味もせず、彼女は下を向く。
「何でもいい」
「……そう言わずにさ」
 彼女はハヤトの顔をちらりと見て、むうと神妙な顔をしてしばらく考えた後、「じゃあ、これ」とチョコ味を手にした。
「はい。どうぞ」
 内心、ほっとため息をつく。
 彼女のことがなんとなくわかってきた気がする。
 一言目には遠慮する。人の顔色をうかがう。こちらの反応を見ている。遠慮の知らない男社会で育ってきたハヤトの周りには、こんな人間はいなかった。
 厄介だ。女性というものは、こんなにも厄介なものなのか。しかし、その感覚が少し新鮮でもあった。くすぐったいような奇妙な感覚だった。

 コーヒーを淹れる。キヌエは合成食を握り締めたまま、犬猫がご飯を食べている様を見つめている。たまりかねて声を掛けた。
「ど、毒なんて入ってないからね」
 彼女はちょっと驚いた後、ふふっと笑った。
「何それ。毒なんて入れる気だったの」
「でも、ほんとはちょっと警戒してたでしょ?」
「――ちょっとだけね」
 キヌエはそう言い、合成食にぱくりとかじりついた。
 前方では、ご飯を食べ終えたミチコが他の犬の皿に顔を突っ込んだり、ご飯を半分も残したままアズサがゆったりと毛づくろいを始めたりと、戦場と化していた食事タイムからひと段落ついた、ゆるやかな空気が流れている。
 それをぼんやり眺めながら、キヌエはコーヒーに手を伸ばす。そして一口。彼女は目を白黒させた。
「何これ」
「自称コーヒーという触れ込みで売ってたやつ」
「……さすが自称ね」
 そんなコーヒーを口に含み、彼女が部屋の中の道具を物珍しそうに見つめるから、ハヤトは一つ一つ解説を始める。作業台からにょきっと生えているアームや仕事道具はもとより、ハヤトが日常的に使っている給湯器でさえ「へえ」と興味を示されて、一体彼女はどんな世界から来たのだろうと思ってしまった。きっとハヤトが想像もつかないような、進歩的で未来的な生活をしていたのだろう。そう思うと、少し切なくなる。
 そしてそんな不躾な質問をぶつけられるわけもなく、コーヒーを口に含んだ。相変わらず泥の味がしたが、不思議と気分は悪くなかった。自分はこの世界しか知らない。だから堂々としているしかないのだ。
 キヌエが足元を気にしだした。つられてハヤトも下を見ると、アズサがキヌエの足元をうろうろしていた。そしてこちらを見、「にゃおん」と一声。
「ど、どうしたの? 鳴いてるけど」
 ハヤトにはその理由はわかっていた。その椅子はアズサの椅子なのだ。餌を食べてくつろぐときなどは、いつもこの椅子に座る。そのことを彼女に伝えると、「え、じゃあ降りる」と言う。
「いやいや、降りなくて大丈夫だから」
 そのうちにアズサがキヌエの膝に飛び乗ってきたものだから、キヌエが変な声を上げた。
 アズサは彼女の膝の上でしばらくうろうろとポジションを考えた後、のしっと座り込んだ。
 彼女は助けを求めるようにハヤトを見た。
「撫でればいいんだよ」
 そう言われて、キヌエはアズサの背をそっと触った。明らかに不器用な手つきであった。
 そのうちに、ぬるりとアズサはキヌエの膝から降り、そしてこれ見よがしに毛づくろいを始めた。
「……嫌われちゃった」
「そんなことないって」
「ねえ、ハヤトさんはどうしてここに?」
「俺は、ここ育ちだから」
 彼女の表情が曇る。
 両親の顔など知らない。物心ついた頃には既にここにいた。たまたま技術者に拾われて、彼から学びながら同じ道を進んだ。そのようなことを訥々と語った。彼女はそれ以上追及しなかった。
「まあ、ここの暮らしも悪いもんじゃない。おかしな奴もいるけど、イイ奴もいるし。――だけど、女の子が一人で暮らしていくのはつらいんじゃないかな……」
 どんどん語調が尻すぼみになっていく。最後の方は目を見て言えなかった。何故ならそれは本心ではないからだ。理性は、元の生活に戻ることを勧めている。感情がそれを邪魔する。
「そうね……」
 独り言ともとれる彼女の相槌を最後に、会話が途切れる。
 ふと、キヌエのがこっちを見ている気がして、ハヤトは何となく彼女の方を向く。視線がぱちっと交わりあう。
「ねえ」
「ん?」
「私がなんでここに来たか、あなたは聞かないのね」
 コーヒーが思いっきり気管に入り、激しくむせた。
 彼女が心配そうに「大丈夫?」と覗き込んでくるのを手で制し、なおもハヤトは咳き込んだ。落ち着くまで少々の時間を要した。
 無論、ハヤトだって気にならないわけがない。
 だが、昨日のこともあって慎重になっていた。ムラサキの二の轍は踏むまい。少なくとも、泣かせるような真似は絶対にしたくなかった。
「……そりゃ、気になるけどさ」
 ここに流れ着いて来るのは、傷を負った人々ばかりなのだ。
 会話が止まる。
 やがてご飯を食べ終わったミチコが、ハヤトのところまでやってきた。ハヤトは餌のかすがくっついたその顔を拭いてやる。ミチコは大人しくなすがままにされている。
「いい子なんだけどね。ちょっとやんちゃでね」
 話題をそらす口実が出来たことにほっとしながら、ミチコの頭を撫でる。
「さっきはごめんねえ。びっくりしたでしょ」
 彼女はしばらく迷ったあげく、「……ああ」と、こっくりうなずいた。
「そのわんちゃん」
「ミチコって言うんだよ」
「……ミチコがね。ドアを開けた瞬間飛びかかってきて、もう心臓が止まるかと思ったわよ」
 ハヤトはひとしきり笑った。
「それね。俺もよくやられるんだよ。ひょっとしたら、俺と間違えてたりしてね」
 キヌエはきょとんとした。
「いや、今日はキヌエが俺のベッドで寝てたから」
 言いながら、顔を赤くする。つられてキヌエも赤くなった。
「いやいやいや、おかしな意味じゃなくってだね!」
 弁解すればするほどおかしなことになる。しかしハヤトは必死だった。
 ようするにハヤトの言い分はこうである。いつものようにハヤトの寝室の前をうろついて、そして出てきたキヌエにご飯の催促をした。あり得ない話じゃない。
 しかしそれがキヌエに正確に伝わったかどうかは怪しいところであった。

 がたっと音を立てて、キヌエは立ち上がった。
「……帰る」
「え?」
 自分の発言で気分を害してしまったのだろうか。ハヤトはどきりとしながら、あくまで何でもない風を装って返事をした。
「短い間だけど、お世話になりました」
「う、うん」
 つられて立ち上がる。
 お辞儀をして玄関に向かおうとする彼女を引き留めるように、ハヤトは声をかけた。
「どうして?」
 一つ屋根の下で同棲生活。気づいたらいつも彼女がそばにいて、時に慰め、励まし、癒してくれる。ハヤトの中で出来上がっていたそんなぼんやりとしたビジョンが、がらがらと崩れ落ちていった。――もちろんただの妄想だ。わかっている。
 彼女が彼女自身の日常に帰るのなら、ハヤトとしてもやぶさかではない。
 だが。ここで帰ってしまったら、もう二度と会うこともないだろう。それぞれの世界に戻り、そこで暮らしていくのだ。
「長居したらお邪魔かと思って」
 ハヤトは顔をゆがめた。彼女の理由は、当たり障りのない建前でしかない。それがどんな意味を持っているのか、ハヤトは直感的に理解してしまったのだ。
 それが彼女に伝わったのだろう、視線をそらされる。
「いや、引き留めはしないけどさ。けどさ、けど……本当に家に帰るんだよね?」
 彼女の瞳が宙を泳ぐのを、ハヤトははっきりと見た。
「待って。待って?」
 まるでミチコのように思わず飛びついてしまった。
 彼女の瞳はそらされたまま。口を堅く結んでいる。
「あのね。家に帰るのなら止めることは出来ないよ。でも、ひょっとしてこの山をさまようつもりなの?」
 ハヤトは必死だった。ひょっとして、嫌われてしまったのではないか、などという自らの直感など大したことではなかった。無防備な状態で山の空気を吸い、日差しを浴びることなど自殺行為である。それだけは止めなければならない。説得にあたる。
「もしキヌエが遠慮とか、迷惑とか、そういうので出て行こうと考えているんだったら、ぜんぜん迷惑じゃないからね。いていいから。いくらでもいていい」
「う、うん」
「キヌエだって、外が危ないことはわかってるだろ? ――いいかい。外は有害物質の嵐だ。マスクをつけなきゃ喉がやられてしまうし、体に変調をきたすことだって充分にありうる。それにこんな太陽の輝く日は、灼熱地獄だ。外に出る奴はいない。出かけるのは太陽のない宵のうちか明け方と相場は決まっている。とにかく、今は駄目だ」
 説得に熱がこもる。
 ハヤトは知らないうちに彼女の手を握りしめていた。
「痛い痛い痛い」
「ご、ごめんごめん」
 ハヤトは慌てて手を離す。ハヤトの左手――義手が凄い力で彼女の手をつかんでいたのだった。キヌエが痛そうに手をさすっている。
 出来るならば、その手をさすってやりたかった。しかし、自らの手のひらにじっとりとかいた汗を、そっとズボンの裾で拭うだけ。
 彼女は困ったように眉をひそめた。
「……わかった。今出ていくのは止める」
「本当? よかった」
 ハヤトはほっと息を吐いた。全く説得出来るとは思っていなかったのだ。
 けれど、ほっとするあまり、彼女の含みのある言葉の意味を聞き逃してしまっていた。
「ありがとね」
「う、うん……」
 何の礼だろう、とハヤトは一瞬訝しく思ったが、居候することに対する礼だと思い直した。
 しかし、彼女の頭にともった謀略の輝きを、このとき彼は知る由もなかったのである。


「ハヤトさん、お酒はいけるクチ?」
 その晩、二人は酒を酌み交わした。
 彼女のお酌ということもあって、彼は妙にあがっていた。なにせ女性と二人っきりで酒を飲むことなんて、初めてなのだ。
 ハヤトがキヌエのコップへと注ごうとすると、彼女は「ちょっとだけね」と言った。
「お酒は弱いの」
「そうなんだ」
 キヌエは酒に弱いと宣言した通り、ほとんど口をつけずに、ハヤトのお酌に徹していた。
 空いた瓶が増えるにつれて、ハヤトの頭はもやがかかったかのようにぼんやりしていった。いったい彼女と何を語り合ったのか、覚えていない。元々酒に強い方ではなかった。それに質の悪い安酒ばかりなのだから、彼女を前にちょっと気負って飲み始めたハヤトがつぶれてしまうのも無理はなかった。
 すっかり酒がまわり、ハヤトはテーブルに突っ伏したまま泥のように眠った。
 ミチコが鳴いて、鼻の頭を押しつけられる感触だけが記憶に残っている。
 翌朝、重い頭を持ち上げると、そこに一枚の書き置きが残されていた。
 彼女の姿は消えていた。
 玄関の壁にかけてあったマスクが、消えていた。



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