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山育ちと都会の猫 4


「はあ……」
 ハヤトはため息をついていた。
「はあぁ…………」
 何度も何度もあきらめの悪いため息をつかれて、ムラサキは嫌な顔をする。
「いつまでそんなとこでごろごろしているつもりだ」
「いなくなっちゃったんだ」
「わかったから、そこをどけ」
 ここはムラサキのクリニックである。客が来ないのをいいことに、ハヤトは診察台の上に寝そべっていた。
 家には書き置きだけが残っていた。やや神経質そうな綺麗な字で、今までお世話になりました。ごめんなさい。ありがとう。云々。そんな言葉が記されていた。
 まるでぽっかり穴が空いたようだった。彼女は風のようにハヤトの心をかき乱し、駆け抜けて行ってしまったのだ。
「冷たいんだな」
 ハヤトは吐き捨てた。まるで手のひらを返すような、彼の無関心な態度が信じられなかった。
「なに。しょせん酸っぱいぶどうだ。最初から手に入るもんじゃなかったんだろ。何をぐずぐず悩むことがあるんだ?」
「そうかもしれないけど……」
「そうよハヤトさん! そんな女のことなんて忘れましょうよ〜」
 そこへオカマのナース、シラユリが割って入ってきた。しなをつくっているけれど、その細い喉から発せられるのは男の声。そして意味ありげに彼は手をハヤトの胸元に這わせる。ハヤトは苦笑しながらさりげなくその手を剥がす。
「いい夢を見せてもらったんだろうよ。女でも買って、紛らわそうぜ」
「ハヤトさんにはあたしがいるじゃないのよー」
 ムラサキとシラユリの言い分にげんなりする。
 ハヤトは昨日の感触を確かめていた。幽霊でも夢でもない。彼女は確かに存在したというのに。彼女はいなくなってしまったのだ。これもまた、紛れもない現実であった。
 ムラサキはなおもご高説をたれる。
「それに言わせてもらうがな! マスクが無くなっていたのだろう。お前が余計なことを言ったばかりに、余計な知恵をつけてしまったんだろ。自業自得と言わざるを得ないな、ハヤト=アカサカ」
「ううっ」
 外に出るための予備知識をしゃべらなければ、彼女はハヤトの家にいたかもしれない。
 だが、逆にほっとしてもいた。少なくともマスクがあれば、外の空気で胸を悪くせずにすむ。そんなことをムラサキにこぼすと、「だからお前は手ぬるいというんだ」と罵倒された。
 ハヤトは診察台の隅に腰掛け、祈るように手を組んだ。そしてムラサキを見る。
「ちゃんと家に帰ってるといいと思うんだけどなあ……」
 ハヤトの思惑通りに家に帰っていたとしたら、それでよかった。しかし、それでも何故か心が痛む。矛盾していた。
 シラユリはばたばたと診察室を後にする。仕事に戻っていったようだ。
「知るか。俺は忙しいんだ」
「俺の話につきあう程度には暇なんじゃないの」
 ムラサキは面白くないといった顔をしながら、椅子をくるりと回転させ、ハヤトと向き合う。
「いいか。本気で探す気があるんなら、こんなところで油を売っていないでとっとと探しにいったらどうだ。どうせ山の装備もない女の一人歩きなんだろ。凄く目立つぞ」
 正論だった。ハヤトはぼそぼそと返事をして、ゆっくり立ち上がる。もうこうなったら、一人でも探しに行くつもりだった。見つかるかどうかわからないけれど、こんなところで油を売っているよりずっとマシだ。
 そんな彼を見かねてか、打って変わって明るい声でムラサキはハヤトの肩に手をかけた。
「とりあえず『赤線』でも行こうかね、ハヤト=アカサカよ」
「おい、真面目に考えてるんだよ俺は」
 むっとして、組まれる肩を振り払う。赤線といったら、たちの悪い風俗店じゃないか。
「何、俺が真面目に話していないとでも思ったか。『赤線』は特にあくどい方法で女を商品にしていることで有名なんだぞ。つまりな、もし万が一何かがあったら」
 その先は言わずともわかった。ハヤトは外套を羽織り、古いガスマスクをつけた。つんと嫌な臭いが鼻をつく。
「行くぞ」
「お代はお前持ちな」
「なんでそうなるんだよ……いなかったら、俺帰るからね」
 二人連れ立って診察室を出ると、シラユリに見咎められた。
「ちょっとセンセ、どこに行くんですの」
「ちょっと所用だ。他でもない親友の頼みとあっては、聞かぬわけにはいかないだろう」
 ハヤトは目を剥いた。まさかムラサキからそのような台詞が飛び出してくるとは思わなかったのだ。ムラサキは真面目な顔こそしているが、その口から発せられる言葉はまったく真実味がなかった。状況が状況だからだ。
「この間も仕事ほっぽり出してどっか行っちゃうんだから! センセ、今日こそは仕事してもらうわよ」
 噛み付くようにシラユリは言った。
 まるで猛獣使いのように、押さえつけることに必死になっていた。しかし相手はとても自由で厄介な獣なのだ。案の定、獣――ムラサキはけたけたと笑った。端から従う気などないことは、ハヤトもよく知っていた。
「センセは仕事にプライドがないんですの」
「俺にとって重要なのは、私生活の充実、だな。なぁに、落ちぶれても俺は人生を謳歌する!」
 台詞だけ聞いていればかっこいいのだが、行く先がフーゾクなのだ。かっこいいわけがあるはずもなかった。
「ハヤトさんもハヤトさんよ! そんな女にうつつをぬかすだなんて! あたしと将来を誓い合った仲じゃないの」
 シラユリはムラサキへの説得が無駄と悟ると、ハヤトにターゲットを変更した。しかも色仕掛けという方法で。
「え、いやあ……そうだったっけ」
 誤魔化そうと視線をそらすが、シラユリはハヤトの胸倉をつかむ。待合室の客がちらちらとこちらを見ている。客の前でこんな醜態を晒すことにハヤトは肝を冷やすが、ここの主は気にも留めていないようだった。親友と言うなら、こういう時こそ助けて欲しいと切に思う。
 シラユリはなおも迫ってくる。
「そうでしょ〜。忘れちゃったの、いやね、ハヤトさん! だいたい女は皆悪魔なのよ! その女だって、話を聞いてればしおらしくしてる振りして、何考えてるかわかったもんじゃない」
「彼女のことを悪く言うなよ」
 思ったより強い調子で声が出たことに、自分自身が驚いていた。シラユリの表情がそれを裏付ける。誤魔化すようにハヤトは笑った。
「ご、ごめんね」
 シラユリから恨みがましい目で見られたが、実際そんな関係ではないのだから仕方がない。シラユリの細いその手を離したところで、ムラサキに肩を叩かれる。「行くぞ」
 シラユリはそれ以上何も言わず、二人を睨みつけながら見送った。何か呟いた気もするが、よく聞き取れなかった。


 「赤線」は、この界隈で唯一ともいえる風俗店である。普段は入り込まないような薄汚い路地に、その店はひっそりと存在した。看板も何もなく、知らなければこの場所に入ることはためらうであろう。
 先を行くムラサキは、慣れたように大股で歩いてゆく。一方のハヤトは、後ろめたい気持ちが手伝って、終始萎縮気味であった。正直に告白すると、心躍るものがないわけでもなかったが、それでもあの人のことを思い自らを律していた。
「おい、ムラ」
 ムラサキは返事をしない。
 古いガスマスクを身につけたせいか、顔のあちこちがむずむずする。キヌエにお気に入りのやつを貸してしまったから、古い物を出して来ざるを得なかったのだ。返ってくる保証はない、というよりほぼ絶望的だ。
「待ってくれよ、どうすんだよ」
 彼の腕を引っ張り、策はあるのか、と言いかけたところで頭を脇に抱え込まれる。ムラサキは無言のまま、「俺に任せろ」と言わんばかりにぐっと親指を立てて、ハヤトの眼前に突きつけた。
 そしてハヤトの頭を抱えたまま、ぎいと分厚い鉄の扉を押す。褪せた紅のカーペットが、余計にひなびた雰囲気を演出していた。フロントから、いらっしゃいませー、とだるそうな声がかけられる。壁一面に女の子の大きな写真が貼られ、ハヤトたちを圧迫する。こんな状況下でも無意識に品定めしている自分に気がつき、顔をしかめた。ムラサキの腕からようやく解放され、ハヤトはもたもたとガスマスクを外した。
 顔を上げると、ムラサキが鼻に押し込めていたフィルターを外しているところだった。彼いわくスタイリッシュな装備だそうだが、口元は無防備なため外で口を開くことが出来ない、という明確な欠点が存在する。ハヤトは無骨なものが好みだから、そういったものに興味はわかない。愛用の品はガスマスクだ。
「まったく。外で話しかけるんじゃない。俺を殺す気なのか?」
「そうだった。……で、どうするんだよ」
 ムラサキは、フロントでぼんやりしている店員に声をかける。
「そうだな。新しい娘などいるかな? 特に、最近入ったばかりの」
「はあ、おりますが」
「んがっ。む、ムラお前」
 彼の策とやらに期待していたハヤトは呆然とした。それは助けに来たとかそんな生易しいものではなかった。その言葉の意図を汲み取るとつまりその「最近入った娘」と楽しみたいという意図が見えてしまったのだ。
「こういうのはな、言ったもの勝ちなのだよ、ハヤト=アカサカ!」
「お前ただやりに来たんじゃないか!」
「当たり前だろう! 間違ったことなど、ひとつも言っていないぞ」
 確かにそうだった。キヌエを探しに行きたいと言ったらムラサキは風俗に行くと言い、ハヤトはただそれに従って来ただけなのだ。ここにキヌエがいるとも、彼女を助けに行くとも、一言も言っていない。ハヤト自身がそう思いこんで来ただけ。
「お客様。揉め事は余所でお願いしますね」
 店員からの抜け目ない視線に、ハヤトは黙る。そしてムラサキは店員に連れられて姿を消した。「お前も愉しんでこいよ!」とニヤニヤしながら。
 ああー、と呻きともつかない声を発しながら、ハヤトはしゃがみこむ。何故その考えに至らなかったのだろうかと自らを責めてみるも、いややはりムラサキのような考え方には普通至らないだろうという結論に達するまでは時間がかからなかった。
 もし、その最近入った娘が彼女だったら。
 いや、そんなことはあるはずがない。ないのだけれども、彼の口車に乗せられてここに来てしまったことは否定できない。
 ハヤトはしばらくの間、そのまま立ち上がることが出来なかった。
「お客様はどういたしますかー」
「いや……俺は」
 もはやそれどころではなかった。キヌエを探しに来たはずが、ムラサキにいいように引っ掻き回されただけではないか。なんだか気力がすっかりしぼんでしまったのである。俺はいい、と言おうとして、ふと顔を上げると、無愛想な店員の横に薄着の女の子が一人立っていた。
「えっ?」
「あら、意外にタイプー。じゃあ行きましょうか」
 酒焼けした声が降ってきた。化粧が濃い目で、見方によっては十代にも三十代にも見えるその女は、ハヤトの手を取って優しくエスコートした。
「えっ……いや、俺は」
 言いながらも、彼は促されるまま立ち上がる。
 ハヤトは無意識に彼女の体を眺めていた。細い手足、やや小ぶりな胸。背はずいぶんと低く、子供みたいだけれど、染色や盛り付けによって痛めつけられた髪が年齢を物語る。
「なあに、あたしじゃダメ?」
「うぐ。いや、その」
 上目遣いの視線に、つい言葉を濁してしまう。断りきれない。それを察したのか、にこっと女の子は微笑んで、「じゃあ行きましょ」と手を引いた。
「違うんだ。俺は人を探しにきただけで」
「そうなのー?」
 ハヤトはなんのかんのと言い訳をするが、手を引かれるまま歩みを止めることはできなかった。そのまま部屋へと誘われる。ハヤトは断ることも出来ず、ただ誘われるままに進んでいった。
 二人の背中を見送り、カウンターには店員が一人、残された。
「……ごゆっくり」
 いかつい面構えの店員に、かすかな笑みが浮かんでいた。



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