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山育ちと都会の猫 5


 古い薄水色の浴槽、そしてその横にはとってつけたような寝床。個室は、じめじめしていて独特の空気が漂っていた。それを誤魔化すように芳香剤なんかを置いてはあるけれど、嫌な空気は消えない。
「じゃ、御代は先払いね。お風呂入る?」
 おもむろに服を脱ぎ出す嬢を、ハヤトは慌てて制止した。
「違うんだ。そういうんじゃなくて、その、話をしにきただけ」
「ん、お客さんこういうところ初めて? ダイジョーブ、怖くない」
「いやだから、違うんだ」
 彼女を押し留めるのにしばしかかった。そりゃあ、下心はないわけではない。だがこんなところで安易に性交渉に応じるということは、彼女に対する裏切りになるのではないか、と思った。いや、違う。自分への戒め。どちらにせよ変な感情だった。
「そお? 楽でいいけどね、あたしとしては」
 嬢は簡易ベッドのふちに腰をかけると、煙草に火をつけた。促されるまま、ハヤトもベッドの少し離れたところに腰かける。
「吸う?」
「いや、俺はいいよ」
 彼女によるとここで何もせず、ただ話をしに来るような人は「よくいる」らしい。何をするわけでもなく、ただ話をしたり、あるいは「こんなところで自分を安売りするな」とばかりにお説教をするような男もいるのだそうだ。
「男ってバカよねー。アハハ」
 かっこつけたつもりだったが、そんな男と同列に見られているのかと思うとちょっと恥ずかしくなった。
「人を探してるんだ。ひょっとしたら……ここで働いてたりしないか、って思って」
「へぇー、そうなの。女の子ならいっぱいいるけどね。あたしとか」
「キヌエちゃんっていうんだ」
「聞いたことない」
 ハヤトはキヌエについて熱く語り出した。ぱりっとしたキャリアウーマン風の女の子が倒れていたので保護したこと。これ以上迷惑はかけられない、と出て行ってしまったこと。目の前の嬢が若干引いていることなど知る由もない。彼女は煙草を手放さず、曖昧な笑みを浮かべたまま時折相槌を入れる。
「こんなところ一人じゃ生きていけないよ。当てもないだろうし、俺が何とかしなきゃ」
「そうなんだ。でもさー、それは探すだけムダってもんなんじゃないのー? だって出てっちゃったんでしょ。しつこい男は嫌われるよー?」
 頃合を見計らって嬢は牽制のつっこみを入れる。これ以上ノロケ話を続けられたらたまったものではない。
「あっ、ああ……うん……」
 しかしそれは的確な急所でもあった。少しだらけた体をしているが、さすがに百戦錬磨の恋多き女は目の付け所が鋭いのである。一番痛いところを突かれて、ハヤトは黙りこくった。
 その通りなのである。彼女は自分の意思で出て行った。ただの他人がそれを止めるわけにもいかないのだ。迷惑をかけられない、などと都合よく解釈してはいるが、本当はハヤトと一緒にいたくなどなかったのかもしれないのだ。考えたくはなかったが。黒い感情がもやもやと立ち上る。
 やっぱり、自分のしていたことは無駄なことだったのかもしれない。
 嬢は短くなった煙草をもみ消し、そしておもむろに立ち上がった。
「ねえ。やっぱり、しよっか」
「え?」
「その子のことは忘れちゃいなさい」
「ちょ、待って」
 彼女はハヤトの眼前にしゃがみこみ、そしてズボンに手をかけた。ハヤトはぎょっとしてその手を押さえる。
 抵抗しながら、ほんの少し心が動いてしまったのも事実であった。ひょっとしたら彼女は、とんでもないやり手なのかもしれなかった。



「うう……」
 ハヤトはげっそりしていた。
 結局「赤線」に来たのは全くの徒労だと言わざるを得なかった。ムラサキの甘言に乗せられてしまったのがいけなかったのだ。
 いや、ここにはいないという事実がつかめただけ僥倖というべきかもしれない。その事実は幾分か肩の荷を軽くしていた。
 鋭い日差しが突き刺さる夕日の中、ハヤトはとぼとぼと帰路を歩いていた。
 ムラサキはもうとっくにいなくなっていた。フロントの男に聞いたところ、キヌエという名前の女はいないという。最初からそうすればよかったのだが、成り行きに口を挟み損ねた結果こうなったのである。ひょっとしたらおいしい思いが出来るのではないか、という気持ちがよぎったことは否定しない。そして実際ときめいたことも否定出来なかった。
 今からクリニックに行けばムラサキが捕まるかもしれない。だが、文句を言いに行く気力も失せていた。
 ともかく。これで手がかりも何もない、振り出しに戻ってしまった。

 ひょっとしたら、もう会えることはないのかもしれない。
 などとぼんやり考え事をしながら歩いていると、知らぬ間に自宅付近まで来ていた。近くの角を曲がったとき、言い争いの声が聞こえてきた。剣呑な雰囲気を察し、ハヤトは反射的に身を隠した。粗暴な者も多く、巻き込まれたらただではすまないからだ。
 そっと覗き込むと、塵でかすんだ視界の向こうに人影が見えた。それも二人。
「……んん?」
 ハヤトは自分の耳を疑った。言い争いをしているその声の主を二人とも知っている。しかもその取り合わせがおかしい。あり得ない。
「――自分を正当化して悲劇のヒロインぶってるわけ。だから女って嫌いなのよね」
「あっそう。初対面なのに喧嘩吹っかけてくるような人に好かれてもしょうがないけど」
 ぞっとするような言い争いなのだが、聞けば聞くほど混乱してくる。どうしてこの二人がここで言い争っているのだろうか。
「何よ。やるってえの」
 オカマ言葉をしゃべる、シャープな立ち姿の人影が啖呵を切る。
「都合のいいときだけ男になるわけ。さすがね」
 そしてもう一人――。その人物の姿にハヤトは釘付けになった。
「ちょちょちょ、ちょっと待って」
 今にもリアルファイトが始まりそうな雰囲気を察し、ハヤトは物陰から飛び出した。すっ転びそうになったが踏みとどまり、なんとか二人の間に割って入った。
「「ハヤトさん!?」」
 二人の声がハモった。
 だがハヤトの目には、既に一人の人物しか見えていなかった。なぜならその人は、その人こそが彼の捜し求めていた人物だったからだ。
「キヌエ〜。無事だったんだ、よかったあ」
 そう言い、勢いで彼女の腕をつかんだ。熱い衝動が体の中から沸き起こったが、かろうじて自制する。
「ちょっとハヤトさん! そこをどきなさいよ! その女を一発殴らないと気がすまないの」
 背後でシラユリが叫んでいるが、無視してキヌエに話しかける。
「どうしてこんなことになってるの」
「それが私にもよくわからないんだけど」
 キヌエは気まずそうに口を開いた。
「聞きなさいよ! ハヤトさん、その阿婆擦れに近づいたらダメよ。あなたを誘惑して良いように使われるだけよ。……聞きなさいったら!」
 もはやハヤトの目にはキヌエしか映っていなかった。シラユリなんぞに構っていられない。シラユリの罵詈雑言に反論もせず、静かにうつむいたままの彼女が悪人のはずがない。そうに違いない。
 と、シラユリに注意を払わずにいたことが命取りとなった。痺れを切らしたシラユリが背後に近寄り、ぎゅっと抱きつく。しまった、と思うがもう遅い。シラユリの細い腕が、ハヤトの首をがっちり固定する。
「貴方が私の忠告を無視するからいけないのよっ」
 よっぽど嬉しかったのだろう、シラユリの声が弾んでいる。
「く、くすぐったい」
「ふふふ、ハヤトさんはわき腹が弱いのよ」
 シラユリはわき腹をくすぐり始めた。ハヤトはもがいたが、簡単に逃れられるはずもない。助けを求めるようにキヌエを見る。マスクを被った彼女の表情は伺えないが、引いているに違いない。
 まともな女性なら、こんなオカマに愛されている男を相手にするだろうか、いや、ない。それをシラユリも承知しているらしく、腕を締め上げながら扇情的に攻め立てる。
「仲がいいのね」
「違うんだ。違うんだってうふふ、止めてくれぇ」
 彼女の声のトーンが少し下がったことに気づいてしまった。案の定、さっきより距離が遠いような気がする。
「キヌエ、今のうちに逃げて」
 この声がきっかけとなってか、彼女はぱっと顔を上げた。そしてつかつかと歩み寄る。そして触れるか触れないかぐらいの距離まで近づいたところでぴたりと止まる。マスクの向こう側にある瞳は、ハヤトの後ろを見ていた。
「ハヤトさんを離してあげてくれない」
「……何よ。あんたにそんな権利があると思ってんの」
 キヌエはマスクを外した。
「私を殴れば満足なんでしょ」
 そこには燃えるような瞳があった。覚悟を決めたように真一文字に閉じられた口。しかしその握り締めた拳が微かに震えているのをハヤトは見てとった。おびえているのかもしれない。
 シラユリの手が止まる。
「あんた、何様のつもりよ。ばかばかしい」
 興を削がれたらしく、ため息とともにシラユリは手を離した。解放されたハヤトはすかさずキヌエにマスクをあてがう。キヌエは埃に目を瞬かせたが、シラユリをにらみつけたまま視線を外さない。
「あ〜あ、しらけちゃったわ。馬鹿みたい。これだから女って嫌いなのよ」
 捨て台詞を吐くシラユリに対して、とうとうキヌエが切れた。
「さっきから勝手なことばかり! 私あなたに何かした?」
「キヌエ、落ち着いて」
 ハヤトは向かっていこうとするキヌエの肩を必死で押さえた。体に触れることも出来る誘惑に駆られつつ、ぐっとこらえる。
 しかし彼女の肩は細かった。威勢良く息巻いているけれどやはり女の子なのだ、と思う。
 再びシラユリが背後に立つ。彼の息がハヤトの耳にかかる。
「わからない? あんたが来てから、あたしのハヤトさんは腑抜け同然よ。あたしのハヤトさんを奪っていった分際でよくもまあ、この泥棒猫!」
 ハヤトは動揺した。キヌエを押さえている手を離して、思わず背後を向く。ハヤトにとっては恋心を暴露されたも同然だし、それにシラユリと恋仲になったことなど一度たりともない。また、キヌエを悪し様に罵ることも見過ごせなかった。だが突っ込みどころがありすぎて、とりあえず慌てるだけで精一杯だった。
「し、シラユリくん。まずいよそれは」
「うふふ。もっと言ってあげようか」
「いやいやいや、だから、もう止めよう。頼むよ」
 シラユリがハヤトの襟元を掴んだ。ハヤトは両手を挙げる。古来から使われている降参の合図。
 しばし見つめ合った後、シラユリは深いため息をついた。
「あほらし。帰るわ。あーあ、私の負けよ、負け」
 そしてシラユリはキヌエをじろりと見た後、髪の毛をぐしゃぐしゃにして帰っていった。
 残された二人はその後姿を呆然と見つめるしかなかった。

 ちらりとキヌエを盗み見ると、ぽかんとしている彼女と目が合った。当然だろう、二人を知っているハヤトですら大変だったのだ。あんな強烈な個性をぶつけられて平常心でいられる人間などいない。
「ごめんね。大丈夫だった?」
「なに? 今の人。どういうこと?」
「あー、知り合いの知り合い、みたいな関係の人。びっくりしたよね、ごめん。見ての通りオカマなんだけど、いつもあんな感じ。ハハハ。ああ参った」
 などとハヤトはまくし立てた。さすがにシラユリがムラサキとの繋がりであり、彼のクリニックで働いている事実を伝えることは止めておいた。余計にこじれそうなのが目に見えていたからだ。
「あの人、私のこと阿婆擦れとか泥棒猫とか言いたい放題……。そんなの古いドラマでしか聞いたことない」
「う、うん。俺が止められればよかったんだけど。本当ごめん」
 キヌエはしばし動きを止めた。
「なんでハヤトさんが謝るの」
「いや……ごめん」
 そう言われてまた謝った。はっと気づいたけれど、もはや口癖なのだ。
 彼女はおなかを押さえて何を我慢しているようであった。具合でも悪いのかと不安になった瞬間、彼女が肩を震わせていることに気づいた。
「あはっ……あっはっはっは! おかしー」
「え? あ、あはは。そんなにおかしい?」
 冷や汗が出たけれど、キヌエが笑っているならもうそれでよかった。
「疲れただろうから、お茶でも飲んできなよ」
 ハヤトは家を指し示した。正直なところハヤトも疲れていたし、外で長々と立ち話するのは気乗りがしない。そう言われて、キヌエはトーンダウンする。
「わ、私――」
 遠慮しているのだろうと思った。あるいは、無断で出て行ったことに対しての罪悪感なのかもしれない。だが、ハヤトはこう言いきってみせる。
「いいのいいの。――おかえり」
 もう離すまいと、その手をぎゅっと握り締めた。


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