type:D-0004

BACK NEXT TOP


09.ブラックボックス


 ふと。キヌエがおとなしい事に、ハヤトは思い至った。活動しているのに、どこかとろんとしている。
「仕事中よ……」
 ハヤトの問いかけに、まるで言い訳のようにそっとキヌエはつぶやいた。頭は冴えているのに、ぼんやりしている。眠るタイミングを逃してしまい、惰性で活動しているようだった。
 そんな風に力の抜けたキヌエを、少し色っぽく見えたこともあって、ハヤトのテンションは留まるところを知らなかった。先ほどのこともあって、彼の欲求不満がとうとう爆発したのだった。
「キヌエちゃん、駄目だよ寝なきゃ! 俺と一緒に寝ようかあああ」
 もはや勢いだけの雄叫びを上げて、ハヤトはいきなりキヌエを担ぎ上げた。そして、ハヤトの寝室へ運び込む。扉を蹴り上げると、びっくりした犬の吠える声が複数上がる。キヌエはこのような事態に反応もできず、ただ固まっていた。
 どさりと、ベッドの上へやや乱暴ともいえる手つきで落とした。小さな悲鳴が上がる。
 そのまま彼は、抱きつくように覆いかぶさる。そっと抱きしめて、彼女の柔らかい体の感触をしばし楽しむ。
 無論、このまま事が始まる……なんて、いい思いをさせてくれるわけはなかった。
 少し身を持ち上げた瞬間、キヌエはぐるりと身をかわして、逆にハヤトを押さえ込んだ。油断していたハヤトは無様にも転がされる。
「ちょっ……やめ……」
 相変わらずキヌエの表情はどこかうつろだった。しかし的確に押さえ込みに入っているのは、もはや反射だとしか言いようがない。
 首の気道がふさがれて、くもの巣にかかったように、もがけばもがくほど力を失っていく。
 キヌエの冷静な瞳を見ながら、ハヤトの意識は、彼の体から離れていった。

 この騒ぎで、犬たちはすっかり目が覚めたようだった。そんな犬たちをあやしながら、ムラサキは事の成り行きを見守っていた。
 意気揚々と寝室に突撃していったハヤトの、うめき声とも喘ぎ声ともつかないくぐもった声が聞こえた気がした。ハヤトはキヌエに絞られているのかもしれない。きっとそうだろう。助けに行ったほうがいいのだろうか。
 しかし万が一にもお取り込み中だったとしたら、――殺される。
 どっちにしろ、夫婦生活に首を突っ込むのは無粋に違いない。だいたいハヤトがこんな目に遭うのは日常茶飯事ではないか。
 そう決め込んで、ムラサキは居間に戻った。居間とは名ばかりの、実質ハヤトの仕事場だ。手術台の上に、起動中のフウカが転がっている。中のモーターの回転音が聞こえてくる。
 見たところ不審な点はなく、蓋を無理やりこじ開けたような痕跡は見て取れない。そこはハヤトがうまく隠匿したようだ。後は、フウカが起動完了するのを待つだけだ。
「生体人形――ねえ」
 ハヤトのやつ、また、因果なものを拾ってきたものだ。キヌエがいらいらしている理由を彼は理解しているのだろうか。よりにもよって、廃棄された生体人形だなんて。
 廊下の向こう、寝室の方から人の気配がした。どうやら揉め事は終わったようだ。
 ムラサキは急いで廊下へ出て、分厚い扉を閉めた。フウカの起動音は扉にさえぎられ、パソコンなどの排気に紛れて聞こえなくなった。

 何事もなかったかのようにキヌエは寝室から出てきた。着衣の乱れを直しているが、あまりに平然としているキヌエを見て、とても取り込んでいたせいだとは考えられなかった。
「ハヤトは?」
「眠ってもらったわ」
 さらりとキヌエは言った。とりあえず必死に言葉を並べ立てる。
「ああ、彼もやんちゃなお年頃だからね。でもねキヌエさん、俺はあいつの気持ちが理解できるね。男は皆そういう――」
「ねえ。そこを通してくれない」
 キヌエは会話を遮る。眠そうな目でムラサキを射抜いていた。
「キヌエさん。せっかくあのような生体と巡り会えたのだから、生体について熱く語り合ってみたいものだが。いかがだろう? キヌエさんの観点からフウカを語る! 実に興味深いものだ」
 まだだ。まだ起動完了していない。ハヤトが時間つぶしなのか本能の暴走なのか知らないが、やっとここまで時間をつないだのだ。
 キヌエはむっとして遮った。
「ムラサキさん。私、忙しいの。納期が迫ってるの」
 キヌエのもはや脅迫ともいえる視線に、ムラサキは引き下がるしかなかった。彼女との距離が近づく、というのに少し魅力を感じたが、さすがにハヤトと同じ目には遭いたくなかった。
「じゃあ、俺は今日のところは退散するか」
 まあ、このまま帰ってしまえば少なくともムラサキには被害は及ばない。事の次第によっては出入り禁止になるかもしれないが、仕事の関係上、縁は切れないだろう。仕方ない、ハヤトに犠牲になってもらおう。
 若干消化不良ながらも、もう手は打ち尽くした……と諦めかけた瞬間、ひらめいた。
「そうそう、ハヤトに伝言を頼む。玄関の扉、借金のつけで払っといてくれ、と」
 そう、すっかり忘れていた。ムラサキは玄関の外扉を破壊していたのだ。
 キヌエは一瞬言葉を失った。
「えー……また? 何度破壊したら気が済むんですか。ムラサキさん、いい加減怒りますよ」
 ぶつくさと文句を言いながら、キヌエは玄関を様子を見に行った。思いつきながら、うまくいった。またほんの少し時間を延ばすことに成功したのだ。
 透明ビニールの素材の内扉越しに見える外扉は、ひしゃげてうまく枠とかみあってなく、隙間から外の粉塵が入り込んでしまっていた。キヌエはムラサキをじろりとにらむ。
 扉からわずかに光が差し込んでいて、もう日が昇っていることを知った。退散するならさっさと帰らなければ。紫外線に当たりたくない。
「おお、もう朝ではないか。今日の紫外線予報は出ていたかな」
「知らないわよ。さっさと帰った方がいいんじゃない」
「うーむ。では、お言葉に甘えることにしよう。キヌエさんと生体論について語り合えないのは非常に名残惜しいが」
「遠慮するわ」
「キヌエさん……」
 いつもはもう少し話を続ける事ができたのだが、さすがに眠さと不機嫌さの入り混じった半眼に逆らえる気はしなかった。素直に帰り支度を始める。
 改めてメガネとガスマスクを装着しながら、キヌエの方を見やる。
 ふと、声を掛けずにいられなくなった。彼女は、ハヤトにさえ、それを話していないのだ。それをずっと一人で抱え込もうとするキヌエが、なんだか小さく見えた。
 自分には、それを受け止めることができるだろうか。
「――キヌエさん、力になれることがあれば何でも言ってくれたまえ」
「……何のこと?」
 ムラサキは説明をしかけて、かぶりをふった。彼女なら、呼びかけの意図に気づいたとしてもやはりそう言うだろう。強い女だ。
「俺でよければ、いつでも呼んでくれ!」
 化学物質の立ち上る煙の中、朝日を浴びながら、ムラサキは帰っていった。
 きぃきぃいびつな音を立てる外扉の蝶番が耳障りに残った。

 キヌエは伸びをして、台所に行き、コーヒーを煎れる。そういえば、ハヤトを起こしてやろうかとも思ったが、あの様子だとムラサキと徹夜で遊んでいたに違いない。そっとしておこう。
 それにしても二人で何をたくらんでいたのだろう。いつまでたっても子供っぽい彼らの考えには、理解し難いところがあった。男ってそういうものなのだろうか。
 手術台の上にはぼんやりしたフウカが座っていた。部屋に入っていっても、こちらに目を向ける様子はなく、うつろに焦点を彷徨わせている。
「――おはよう」
「――あ、はい、おはようございますっ!」
「……最近の生体は寝ぼけるもんなの?」
 新しい型の仕様はよくわからないが、そんなものまで登場しているのだろうか。もちろん、ハヤトたちがいじって再起動させたからだとは知る由もない。
「うふふー。ハヤトさんの夢を見ていましたー」
 恍惚とするフウカの表情。相変わらず人をいらっとさせるのに長けているこの生体だが、相手をする気にもなれないので、キヌエは大きくため息をついて、さっさと部屋へ退散しようとした。
「あぁ、でも私、悔しいなぁ」
 フウカは、独り言のようにつぶやいた。
「……何よ」
「ハヤトさん、キヌエさんのことばっかりしゃべるんですよ」
 キヌエは黙り込んだ。
 何だかとってもくすぐったい感じがして、怒っていいのか、笑っていいのか、頬をコントロールすることができない。きっとおかしな顔をしているだろう。
 フウカはそれに気づいたのか、にこぉっと笑った。
 生体に見透かされたのがなんだか悔しくて、キヌエは渋い表情で今の感情を隠した。

 カフェインの作用か、目が冴えてきて、今なら何でもできそうな、妙な高揚感が体を包み込んだ。相変わらず頭はぼんやりしているが、まあパソコンの前に座ればなんとかなるだろう。
 飲み終えたカップを食器洗浄機にセットし、さて部屋へ戻ろうとしたときに、フウカのつぶやくような声が聞こえた。
「あれ? おかしいなぁ……」
 むずがる子供のように不安そうな声をあげる生体人形。無視して仕事に戻ってしまおうと思ったのだが、違和感を確かめるようにあらゆる関節の稼動範囲まで動かし続ける生体人形を見て、さすがに様子がおかしいことに気づいた。
「何よ。どうしたの」
「なんか……うまく言えないんですけど。何かが、変なの」
 ずしりと重く、あの事故がよみがえる。苦々しい記憶がフウカの声で呼び起こされる。
 キヌエは腹の底からわきあがってくる吐き気を何とかこらえた。あの映像が、昨日のことのようにフラッシュバックする。
 あの事故の償いをしなければいけない。放っておくことなど、できなかった。
「……わかった。とりあえずそこに座りなさい」
 キヌエは生体を手術台に座らせた。パソコンにつないであるケーブルをフウカの頚椎に差し込む。パソコンのソフトを動作させると、フウカの体から力が抜け、目から光が消える。
 キヌエはライセンスを持つ正規の修理屋ではない。昔勤めていた会社からおこぼれをもらっているに過ぎない。本来は起動している生体のプログラムなど、いじってはいけない。これは、法律を侵していた。
 キヌエは脂汗を流しながら、ブラックボックスの中身をそっと開いた。自分にはできることをするだけだ。

BACK NEXT TOP


Copyright(c) 2006 mizusawa all rights reserved.