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10.目覚め


 目の前にはムラサキがいた。
 よくよく見たら彼は全裸だった。しかも、それを恥じている様子はない。いつものように偉そうに彼はこう言い放った。
「お前がキヌエさんの何を知ってるというんだ。旦那失格だな。俺が離婚届を受理してやろう」
 意味がわからない。
「何を言ってるんだ?」
「大体お前は、何も知らないだろう。俺は何でも知ってる、キヌエさんのことならな。つまりお前には、資格がないのだよ、資格が!」
 部屋には、キヌエに関する一切合財のものがなくなっていた。犬もいない、猫もいない。そして、彼女の姿もなくなっていた。あるのは、ぼろぼろに朽ち果てたハヤトのガラクタのみだ。
「キヌエは……?」
 いつの間にかフウカがそばにいて、こうささやいた。
「大丈夫ですよぅ。私がいますよっ」
 キヌエはどうしたのかという言葉は、彼女の口でふさがれた。ハヤトは、半ば呆然としてフウカを見つめ返した。唇には生々しい感触が残った。まるで人間のよう――いや、目の前にいるフウカは、見まごうことなく人間だった。覗き込んできた印象的な瞳に、ごくりと唾をのむ。
 彼女は、ハヤトの頬にそっと口づけた。かと思うと、べろん、と大きな舌で頬をなめ上げた。生々しくも、冷たい感触にびっくりする。
「な、何をする――」
 驚くと同時に、写りの悪いスクリーンのように映像がぶれ、目の前が白くなりまた黒くもなった。体が上の方に引っ張られるようで、ぐっと押し付けられているような、この感覚は――。

「……は?」
 おかしな声を上げてしまった。というのも、現状を把握したからだ。
 重いまぶたをうっすらと広げたその先には、見慣れた寝室の天井があった。埃をかぶった剥き出しのパイプがうねっている。
 そして先ほどから、ふがふがふがふがと耳元で荒い呼吸をしている――ミチコが、ハヤトの脇にどっしりと構えていた。頬をなめたのはおそらくこいつだ。
 要するに、すごく変な夢を見ていたのだった。
「ああ……びっくりした」
 頭が重い。なんでムラサキが全裸だったのか理解に苦しむが、実物もそう変わりはないと無理やり納得する。次に会ったら殴っておこう。
 しかし、夢の中のフウカはきれいだった。人間のものだった青い瞳はとても魅力的で、その口づけは官能的でさえあった。目を閉じて、その姿を思い出してうっとりするが、耳元でハアハアと呼吸をするミチコが現実に引き戻す。そういえば、キスの正体はミチコだったのだ。大きくため息をついて、ごしごしと頬についたよだれを拭く。
 何が嬉しいのか、ミチコは大きく尻尾を振っていた。勢いでのしかかって来ようとするから、押し戻し、逆にベッドに転がしてやった。それもまた嬉しいらしい。ごろごろと体をくねらせ、シーツを乱していく。
 首をゆっくりと回して、調子を確かめる。少し筋を痛めたようで、思わず顔をしかめる。
「キヌエのやつ、また派手にやりやがって……」
 今朝、キヌエに沈められたまま、ハヤトはベッドの上でずっと眠っていたのだ。やはり自然に眠りに落ちたのとは違い、体に堪える。よく目が覚めたものだと思う。
 特に義肢との接続部分である左肩が妙に痛む。心なしか、義肢の反応が鈍いようだ。こぶしをゆっくりと握り締めると、金属のこすれる音がかすかにした。
 寝室にだらしなく脱ぎっぱなしのキヌエの下着を見て、ハヤトはほっとした。やはり、あんな夢を見て不安になっていたのだろう。
 ふらついた足取りで、ハヤトは居間のドアを開け……その目を疑った。夢とは違う驚きが待っていたのだ。しかも、今度はれっきとした現実だった。

 居間では、キヌエがパソコンの前に座っていた。頭がキーボードの上に乗っかっているところを見ると、作業中に寝落ちしてしまったのだろう。静かな寝息をたてている。
 そして、手術台の上には、同じく目を閉じたフウカが、ぐったりと座り込んでいた。首の後ろからは太いケーブルがのびて、パソコンにつながっていた。
 一気に目が覚める。昨日の事がばれたのだろうか。
 とりあえず毛布を持ってきて、キヌエの肩に掛けてやる。彼女を起こさないように、そおっと、だ。もし目が覚めたら、大変なことになる。この部屋に留まっていることもまずいかもしれない。ハヤトの心臓は大きく鼓動していた。
 まず、何が起こったのか整理してみる。考えられるのは、一つめ、フウカが起動しなかったこと。二つめ、起動はしたものの正常に作動しなかった。三つめ――これが一番ありそうで怖いのだが――フウカの起動が間に合わず、ムラサキ、またはフウカの口から事の顛末が漏れてしまったこと。
 ありそうなのは三だ。恐らく、ムラサキはキヌエを足止め出来なかったのではないだろうか。考えれば考えるほど、そんな気がしてくる。
 冷静に考えようと現場を確かめるが、焦りはとまらない。事実を確かめようにも、ムラサキはいない。とっくに帰ってしまったようだ。
 通話を試みるが、仕事中なのか出る様子がない。ただ、無情な呼び出し音だけが鳴り続ける。
「くそっ」
 思わず乱暴に機械を叩きそうになり、寸前でその手を止めた。
 いたずらを見つかった子供……というほどやわな問題じゃない。少なくとも、キヌエは許しはしないだろう。彼女が目覚めたら、どうなるのか予想もつかなかった。怒るだろうか。それとも、ため息とともに口を閉ざすのだろうか。
 ハヤトは苦々しげに、物言わぬ生体人形とキヌエの背中を見つめた。

 西日が赤々と燃えている。
 目が焼け付くほどの光線の中、いかついガスマスクを装着したハヤトはとぼとぼと歩いていた。ゴーグルを装着していても、日の光とちかちかする粉塵が眩しい。相変わらず過酷な環境だ。
 いたたまれなくなって、逃げるように出てきてしまった。何も解決しないのはわかっている。ただ、気分を変えれば何かがわかるかもしれないと思ったのだ。
 ここしばらく、義肢である左腕の様子がおかしい。動作が重く、スムーズにいかない。粉塵にやられてしまったのだろうか。そのうちに点検しなければ。
 あるはずのない腕が、じわじわと痛みを訴えるような気がした。
 自然と足は、いつものところへ向かっていた。そう、山だ。
 熱を発生させ、水分を蒸発させ、光化学スモッグを発生させる太陽の出番がようやく終わろうというこの時刻は、一日でもっとも厳しい時間帯だ。
 人の姿もほとんどない。山を資源とする浮浪者たちは、ねぐらで日の沈むのを待っているのだろう。
 彼らの活動時間は、日が沈んでから夜が訪れるまでの間か、夜明けから日中までの薄暗い時間に限定される。日中はご覧の有様だし、真夜中は別の者の時間だった。この山を縛る法はないけれど、いつの間にか暗黙の了解として、そう決まっていた。
 真夜中には、このスクラップの山から資源を発掘する彼らとは逆に、どこからかガラクタを寄せ集めて廃棄する業者が訪れる。トレーラーや、小型飛行機など、手段はさまざまだ。下手をすると空輸するスクラップごと埋められかねない。
 そのおかげで、夜明けは浮浪者が資源を発掘する時間、宵はその浮浪者が露店を並べる時間帯のようになっている。これから日が沈めば、露店がぽつりぽつりと現れる。
 ガスマスクでは防ぎきれない悪臭が鼻につく。うかつにこんな時間帯に出てきたことを、ハヤトは少し後悔した。さすがに登山する気力はない。
 ぽつりと山のふもとに座っている人影を発見したのは、それからしばらくたってからのことだった。
 煙のように視界をさえぎる化学物質の塵の中で、男はぼろをまとっていた。
 こんな時間に店を出しているのだろうか。無機質な山の風景の中、その唯一の生物の存在が目にとまった。ぼんやりとその男を見つめる。
 男はわずかに顔を上げた。他の浮浪者と同じようにぼろきれで顔をぐるぐる巻きにし、表情は読み取れない。
 視線が合う。しまった、とハヤトは思った。男の動きからなにやら剣呑なものを感じ取ったからだ。
 当然だが、まっとうな浮浪者ばかりではない事をハヤトは忘れていた。そういうのに関わるとろくなことがない。一人だと思ったら、いつの間にか周りに男たちに囲まれて――なんて話も聞くのだ。身ぐるみをはがされて、下手をすれば身につけた義肢さえ強奪される。命さえ危ない。
 思わず周囲を確認する。だが、特に怪しい人影は見当たらない。
「ははっ。誰もいやしないよ」
 その男は笑った。ぎょっとして振り返る。
 その図体の割には幼い声だ、と思った。まだ十代くらい、と見当をつける。生まれたときから山暮らしの人間もいるため、別段驚かない。ただ、山生まれはこの悪い空気を吸っているためか体が弱く、総じて寿命が短い。そんな人間が、こんなところで何をしているのだろうか。
 男の前には数点のがらくたが並んでいる。呆気にとられていると、ぼろ布の向こうで男の表情が変わったのがわかった。
「旧時代の義肢? ……あんた、知っているよ。やたら変なものを買っていくので有名なやつだろ」
 いきなり話しかけられたので呆気に取られながらも、旧時代の義肢が自分の左腕を指していることに気づいたハヤトは抗議の声を上げる。
「へ、変なものって。ひどいなあ。俺は――」
「あっはっは。あのおいちゃんの常連なら、変なものさ。この間は人形を拾って帰ったそうじゃないか。俺たちの間では噂になっているよ。宝くじを引き当てたラッキーボーイ。よく刺されなかったねえ」
 そんなに噂になっているとは思わなかった。改めて自分の無用心さにぞっとする。いつも来ているから、忘れがちなだけだ。この山はあらゆる危険をはらんでいるのだ。汚染された空気から、人間同士の醜い感情までが渦巻いているのだ。
「いい値になったろ。いくらで売った?」
「いいや。売ってない」
 男は驚いたようだった。
「信じられない。しばらくの間は遊んで暮らせるのに。兄ちゃんくらいならいい業者知ってるんだろう?」
 売る気はない。そう言おうと思ったが、何故か言葉が出なかった。喉の奥で、何かが引っかかっている。
 並べられたがらくたを弄びながら、他人事のように男は言う。
「なんなら、俺が売ってきてやろうか」
「……あんたは」
 何者なんだ、と言おうとしたところで、まるで先回りしたように相手は言葉をつむぎだした。
「俺? 俺はこの通り、住所不定無職、ってやつだ。――そんな固くなるなよ」
 ハヤトは自然と身構えていた。この男はまるで全ての事情を知っているかのようにしゃべりだす。警戒しないわけがない。
 それを見てか、男は言葉をやんわりと訂正した。
「まあ、見ての通り住所不定無職だが、俺には人脈がある。あんたが持ってるいわくつきの人形だって、売ってやれる」
「いわくつき?」
「よく考えてみろよ。あの生体人形はここに棄てられていたんだ。つまり、何らかの問題があったことは間違いないだろう。そんなものをいつまでも持ち続けるつもりか? ――今、こんなところへ来なきゃいけない原因があるとしたら、あの人形なんじゃないのか?」
 ぼろきれの向こうに鋭い視線が垣間見えた。まるで、全てを見透かすような。そんな力強い瞳は、少なくとも他の浮浪者には見られない目だった。彼らは皆死んだような目をしている。
 妙に喉が渇く。ハヤトは段々気味が悪くなっていた。男の笑い声。バカにしたような口調。ひょっとして自分を欺いているのではないかと思えてきたのだ。
「君は、フウカの何を知っているんだ」
「フウカ? フウカっていうんだ、あの人形。ふうん、名前までつけたの。そりゃあ危なっかしい。そんなことをしたら、手放しにくくなっちゃうだろ」
 男はからかうように言う。
「ははっ。びっくりしたかい。今日は何かが来る予感がしてたんだけど、当たりだったねえ。――俺は、そういうのが見えるんだよ。だからこんなところでも、生きていける」
 男の言葉には、ここに生きていることを誇りに思っているような力強さがあった。焼けるような日の光が、今そこに生きている事実として二人を覆いつくす。ハヤトは、肩で息をしていた。
 さっぱり理解できなかった。いったい、この男はどこまで知っているのだ。そんなことをする真の目的はなんなのだ。しかし、そんなことを言葉に出せはしない。
 逆に、全てを聞いてしまえば楽になれるような気もした。今起こっていること。フウカのこと。キヌエのこと。全てぶちまけてしまえば、この男は答えをくれるかもしれない。しかし、そうではなかったとしたらどうなるのだろう。この男は信用できるのだろうか。
「どう、にいちゃん。悪い話じゃないよ。考えておいてよ」
 はっと思考から戻された。ぶちまけるタイミングを逃してしまったハヤトは、ばつが悪そうにうなずく。
 この時間にはここにいる旨を伝え、その男はがらくたを拾い集めて立ち上がった。発育が悪いのか遺伝子異常か、彼の足は妙に短く、上半身をふらふらと揺らしながら、おんぼろ小屋が立ち並ぶ通りの方角に去っていった。
 日が沈み始めていた。太陽の支配は去っていき、汚染された空気の威力が弱まってきたところで、人がどこからか現れる。日の光が和らいできたことに、幾分ほっとしながら、ハヤトは油断なく人々に目を走らせる。
 山は万人に優しくない。そのことを改めて思い知らされた。奇妙な、まるで体をまさぐられたような不快感。全身に汗をかいていた。
 現れる人々に逆行するように、ハヤトは自宅へと足を進めた。男の言葉のせいか、妙に監視されているような気味の悪い視線を背中に感じてしまい、自然と足が速くなっていった。こんな気分を味わうくらいなら、家の中でキヌエの罵声を浴びせられるほうがまだマシだった。例え家庭が冷え切ったとしても、少なくとも彼女は命を奪いはしない。
「おかえりなさぁぁい!」
 家に帰ると、大げさな仕草でフウカが抱きついてきた。
 先程の男の言葉が頭の中を支配していた。本来ならフウカの柔らかいシリコン素材の感触を楽しめたはずなのに、今は素直に喜べなかった。
 自分の拾ってきたこの人形はいわくつきなのか? いや、まさか。ちょっとM型――メイド型にしては不思議な点がある……それだけのことじゃないか。そうだ、それだけだ。
 家は相変わらず犬猫のお陰でにぎやかだった。さっきの光景はまるでなにもなかったように。黒猫のミサはぶら下がっているプラグの先端を獲物に見立てて狙いをつけ、小型犬のエリナとハヅキは手術台の下で取っ組み合っている。
 キヌエの姿を探すが、先程寝入っていた居間にはいない。
「キヌエは?」
「お部屋に閉じこもってますよぅ」
 仕事がたまっていると言っていたことを思い出して、顔をあわせなくていいことに少し安堵した。彼女は何を考えているのかが、気がかりだった。フウカをパソコンとつないでいた先程の光景は、幻だったのだろうか。

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