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16.覚醒


 キヌエはいらいらしていた。ぶつぶつと画面に向かって文句を言いながら、合成食をかじる。
「気持ちの悪いコード組みやがって……」
 合成食は、腹を満たすためだけに作られた固形状の食べ物だ。安価でどぎつい味付けがしてある割に、栄養価は低い。
 しかしキヌエは気にせず食べる。こういうジャンキーな味のものを食べていると、生きている実感がするからだ。
「おっかしいわね〜……」
 幾重にも幾重にも重ねられたスパゲティ・コード。命令文があっちに書かれ、それに対応する条件文がこっちに書かれ、それを確認して目で追うだけでも一苦労だ。綺麗に整頓出来ればいいのだが、どこでどんな見落としがあるかわからない。そしてそれを校正しているくらいなら、新しい仕様をつけたしていくほうが時間的に効率がいい。こうして積み重ねられたスパゲティ・コードは誰の手にも負えない代物になっていく。
 ぱしん。力あまって勢いよくキーを叩きつける。
 その瞬間。
 画面にフラッシュが走ったかと思うと、ぷしゅーん、と頼りない音を立ててパソコンが停止した。と同時に、部屋の明かりも、排気も、電力を使用しているなにもかもが停止した。画面はただ漆黒を映している。外からの光を通さないこの部屋は、一瞬で闇に閉ざされたのだ。
「え?」
 停電だ。キヌエは目の前で起こった出来事についていけず、ぽかんと口を開けた。
 パソコンの電源が落ちた。今まで積み上げてきたコードが、一瞬のうちに消え去ったのだ。
「えええ? ちょっと……なんてこと」
 キヌエは頭を抱える。予備電源が作動するようになっているはずなのに、それも動かなかった。最後に保存したのはいつだっただろうかと、一瞬頭をもたげ、考えるのを放棄した。気持ちのやり場が見つからない。
 一瞬、パソコンが青白く点灯した。びくっと背筋が凍る。
 何? これは何なの?
 そして息をつく暇もなく、犬たちの叫び声が聞こえた。それも一匹ではない、そこかしこで。遠吠えではない、まるで医者に連れて行く時のような、初めて家に保護して怯えているときのような悲痛な声。皆、あらん限りの声をあげている。
 何かが起こっている。ただ事ではない。
 キヌエは暗闇の中勢いよく立ち上がった。手探りで歩きながらも、動揺して何かにすねをぶつける。痛みをこらえながら、彼らの鳴き声に近寄っていく。
「ミチコ? 落ち着いて。怖くない、大丈夫だから。ほら」
 言いながら、自分の手が震えている事に気づいた。
 温かい鼻息を感じた。そのまま手を伸ばし柔らかい毛に触れる。鼻をぴすぴす言わせたまま、苦しそうな声を上げている。
 どうしたらいいの。――ハヤトはどうやってなだめていたっけ。
 こういうことはハヤトが詳しい。彼らが何を訴えているのか、さっと読み取って、ぱぱっと対処してくれる。キヌエのことにはまるで無関心というか、こちらの意図なんて全く読み取ってくれやしないのに。
 元来、動物と接することが少なかったキヌエにとって、なだめたりするのは簡単なことではない。怖い、というよりもどうしていいかわからないのだ。そっと撫でてみるけれど、彼らの悲鳴はとどまるところを知らない。まるで、赤子のよう。
 悲痛な叫びをあげる犬とは対照的に、猫たちは静かだった。不気味なほどに。
「アズサ? キキョウ?」
 呼びかけてみても、反応がない。
 不安になったけれど、どうしようもなかった。このがらくたと暗闇は彼女たちの潜伏能力を最大限に発揮する。探すのは不可能だった。
 ハヤトはどこに行ったの。そしてフウカは?
 鳴き叫ぶ犬たちをなだめつつ、二人を探したけれど、どこにもいない。
 キヌエは途方に暮れた。
 この肝心なときに。二人揃ってお出かけ。
 悔しくて悲しくて、涙が出そうだった。



 気を失ってから、いつまでそうしていただろう。
「……キ……ヌエ」
 はっと、自分の言ったうわごとに目が覚めた。
 ハヤトはべったりと顔を地面につけたまま力なく咳をした。ガスマスクが消えている。無防備にも、呼吸器官を外の風に晒していた。だが、顔を覆う気力もない。
 そこにすらりと立つ足が見えた。
「君は……誰?」
 言ってハヤトは激しく咳き込んだ。咳をするたびに左の肩から神経に響く痛みが走る。しかし咳は止まらない。
 その人影が笑ったような気がした。
 そうだ。フウカを奪われてしまったのだ。フウカはどこへ行ってしまったのだろう。
 肩の痛みがハヤトの思考力を奪っていく。
「ねえ、君、フウカを知らないかい。俺は……フウカを探さなきゃいけないんだ。フウカを取り戻さなきゃいけないんだ。フウカを」
「心配しないで。『フウカ』は貴方の目の前にいるわ」
「……フウカ?」
 本当だ。砂埃でうっすらと見えるそのボディスーツの色合いも、体つきも、確かにフウカのそれだ。
 だが、全く安心できないのは何故だろう? この違和感はなんだろう?
 フウカはかがみこみ、ハヤトの手を握り締めた。その途端、体中に激痛が走る。神経をえぐられるような耐え難い痛みに、思わず声が漏れる。身動きも出来ず、ただ叫ぶしかなかった。
 違う。違う。これはフウカなんかじゃない。これは――
 頭の中で思考が実を結んでいかない。あと少しのところで、ばらばらとほどけていく。体中を襲う痛みと、ただ本能的な――
 恐怖。そう、恐怖だ。
 このまま、死ぬかもしれない。
 ぞっとした。あいつらに襲われた時すらも、ピンチだけれど頭のどこかで何とかなるような気がしていたのに。今は全くその楽天的な考えどころか、死の瞬間と苦しみと痛みばかりが駆け巡る。このまま砂に埋もれて、朽ちていくのか。キヌエ、ミチコ、キキョウ、アズサ、フウカ、キヌエ――キヌエ!
 ぐらり、と再び視界が暗転しかけ、その途端ふわっと痛みが消える。
「おっと。そう簡単に気絶させやしないわ。面倒なのよね、色々」
 ハヤトは抵抗するように仰向けになった。ようやく、『彼女』の顔が見える。
「君は……誰なんだ」
「さっきも言ったわ」
 違う。そんなことを聞いているんじゃない。確かに藍色の瞳も、その華奢な体も、何もかもフウカだ。でも、フウカは。
「フウカはそんなこと……言わない」
 『彼女』はふう、と息を吐き、まるで見下すようにぎゅっと眉根を寄せ、片方の頬を上げた。その姿が、ひどく醜く見えた。


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