●● 消えるマキュウ --- 【一】 ●●
野球道具を背中に背負った、泥だらけの竜之介、きれいなままのユニホームの遥。神野川にかかった橋の上を二人は歩いていた。
片道二車線でごうごうとうなりながら駆け抜けていく車。太陽は空を真っ赤に焦がし、光が川面にきらきら映っている。
歩くペースも二人は対照的であった。るんるんと飛び跳ねる竜之介、その後ろを遥はずるずると歩いていた。
竜之介は今日の試合展開を一から解説し、ハム美はああだったの、寅吉がどうだったの、しゃべり続けている。遥はうなずくもなぜか乗り気にはなれなかった。
いつもならもっと喜んでいたのに。
「どうした?」
遥は首を振った。お父さんのこと。公美子のこと。色々なことが頭に流れてぐるぐるとして、うまく言葉にならない。
「今日のハム美、チョーこええのな。生理かな」
「え、何?」
「知らねえの? ……あ、いや、なんでもない」
「ふうん?」
遥は首をかしげた。
「でさ。前にさ、監督がさ、遥のバッティング褒めてたぞ」
「へえ?」
初耳だった。
竜之介はグリップをにぎるポーズをした。バットを持たずにそのまま腕を振る。
「遥はハム美よりバッティングうまいじゃん。ハム美はボールが飛んでくるほうに回ると下手なんだよな。投げるのは強気なくせになー」
その強気が遥の憧れでありコンプレックスでもあった。ローテーションで、公美子が投げた次の日は遥が投げる。公美子のようにびしっと打ち取りたいが、ボールは正直だ。どうしても弱気がボールに表れてしまう。
その点、打撃は悪くないんじゃないか、とも思う。当てるだけなら難しくはない。ぽこんと一発内野ゴロを当てて、塁に出たはいいものの、後続が出ずにその回は流れた。
「でも僕、ピッチャー……」
やっぱり、本来のピッチャーで出してもらいたいとも思う。でも、自分の自信のなさが自分を駄目にする。公美子と比べると勝てないような気になってしまうのだ。どうしてあんなに自信満々な目ができるんだろう。
しかし竜之介の鼻息は荒い。
「イチローだって、子供の頃はピッチャーだったんだぜ」
「ううん? イチローかあ……」
イチロー? 竜之介唐突なことを言う。言いたいことがわかったようなわからないような、もやもやした気になる。
「投手は向いてない」? いや「人は、意外な可能性があるものだ」かな。元気付けようとしてくれているのだろう。
竜之介も、今日は自分の好きなサードにつけなくて不満だったんだろう。でも今は笑っている。彼のポジティブさが眩しかった。
「んじゃ今日はバッティング練習な! 競走ー!」
竜之介はそう言うと、いきなり駆け出していってしまった。遥は慌てて彼の背中を追う。
「ちょっと! 待ってよ!」
「あははは! 捕まえてごらんなさーい」
竜之介はふざけている。思わず笑ってしまった。走りながら笑うと、息が切れる。
「……ねえ、どこ、行くの?」
竜之介は橋の脇の道を左に曲がっていった。てっきり家の前で練習するのだと思い込んでいた遥は戸惑った。御花町駅をずんずんと通り過ぎていく。やがて、竜之介はデパートハトヤの前で立ち止まった。
「ここ、ハトヤだよ?」
「遥、バッティングセンターで打ったことある?」
遥は首を振った。バッティングセンターなんて大人の溜まり場みたいなもんじゃないか。それに、お金だってかかるし。
竜之介は、悪いことをたくらむ子供の顔で笑った。
「俺さ、ちょっと打ってみたかったんだよね。せっかく御花町まで来たんだからさ」
竜之介はずんずんと行ってしまった。
「ぼ、僕もちょっとはやってみたかったけどさ……」
ぼそぼそつぶやきながらついていく。自動ドアが二人を出迎える。布団売り場の脇をすり抜け、竜之介と二人で、ドキドキしながらエレベーターに乗った。目指すは屋上にあるバッティングセンターだ。エレベーターから見える外の景色が、ぐんぐんと地面から遠ざかっていく。
デパートの屋上にあるバッティングセンターには、大きな体つきの大人や高校生ぐらいの青年が汗を流していた。
こんな時間帯のせいか、遥たちのような子供は一人もいない。しかもフレアーズの赤いユニホームのままだ。なんとなく注目を集めているような気がして、居心地が悪い。
空はあっけなく太陽も落ちて、薄い夕闇が広がってきている。外と室内を繋ぐ壁には、ガラスを張ったドアが一面に並んでいて、外は緑色のネットで個室のように仕切られてある。ドアの向こうはバットを構える客でちらほら埋まっているが、入り口から一番近いところがちょうど空いていた。
竜之介は勇んでドアを開けた。遥もその後ろに続く。正面に電光掲示板とボールを投げる機械が見える。
空は澄み渡るほど薄い藍色が広がり、ナイターのような大きなライトがバッターボックスを明るく照らしている。まるで球場のようだ。少し大人になったみたいで、わくわくした。
横には、青いヘルメットと金属製のバットが備え付けられている。相当使い古したもののようで、磨かれてはいるが傷が目立った。
バットを取り出してみると、長さも重さも、遥が使っているものとはまるで違った。構えようとするとぐらついてしまう。
「すっげー重い! これじゃ振れないよ。大人用の道具使ってもしょうがないしさー、俺ら自分の道具でよくね?」
竜之介も調子に乗ってバットを構えた。確かめるように振っていたが、その重すぎるバットに振り回されているみたいだった。
「じゃあ俺からな」
バッグから小銭を捻り出して、竜之介は打席に立った。
電光掲示板に投手が映り、竜之介と対峙する。
竜之介はバットを握る手に力を入れた。勝負だ。
投手の絵が滑らかに動く。
がしょん、と機械の動く音がして、反応する間もなく球が繰り出された。空気を切るすごい音がして、竜之介は反射的にのけぞっていた。球はあっという間にバックネットにかかり、転がっていた。
「……びびった」
竜之介でさえも全く手が出なかった。明らかに速い。
「ああっ! 百三十キロって書いてある!」
入り口の看板に、ちゃんとそう記されていたのに、わくわくが先行して見逃していた。百三十キロといえばプロ野球レベルだ。少なくとも小学生に手が出せる球ではない。竜之介が珍しく動揺している。
球は次々に飛んでくる。機械だから同じ軌道なのかと思いきや、高め低めを織り交ぜて投げてくる。竜之介が何回か手を出してみるも、完全に振り遅れていた。
「おい、ちょっと無理! 次、遥な」
「ええっ!?」
無理だ、と言おうとしたが無理やり竜之介に背中を押されてしまった。温かい手にどきっとする。
しぶしぶバッターボックスに入った。その間にも、打ち損ねた球がバックネットにたまっていく。打てないのはしょうがないけど、もったいない。
遥はバントの構えをした。竜之介でさえ追いきれなかった球だ、スイングして当たるとは思えない。だったら当てるだけでもいい。
電光板投手の投球フォームの後、しゅっ、と音がして白い球筋が見えた。重い感触が手に伝わる。球は打ちあがり、後方へ流れた。
「あー。キャッチャーフライだな。惜しい!」
当てることができてまずはほっとする。
「やっぱ遥はミート率いいよな〜」
「そ、そうかな」
知らずうちに頬が赤く染まる。
竜之介はきょろきょろと周りを見た。
「ちょっと俺、他に空きがないか探してくる。そのままやってて」
「う、うん」
そう言って竜之介は出て行ってしまった。遥はうなずいたものの、急に心細くなった。この剛速球に一人で立ち向かうなんて、くじけそうだ。
目の前の投手はセットポジションの構えをした。
ようし、今度はスイングで当ててみよう。いや、やっぱりバントならミートする確率があがる。
ううん、せっかく竜之介が見てないんだから、失敗しても恥ずかしくない。思い切ってフルスイングにしようかと悩みながら打席に立つ。周りの視線が気になって、思わず遥は誰も見ていないか確認してしまう。
ふと、遠くの空が青白く光った。
……流れ星?
夕闇に放たれた光に気をとられて、遥の耳は、マシンにボールがセットされる、ガコン、という音を聞き流していた。ゆっくり動く電光掲示板のピッチャーさえも視界に入らない。
なんだ? と思う間もなく、一瞬のうちに、その光は遥へと迫っていた。目の前が光に包まれて、動くことができない。
しゅっ、と風を切る音がした。
遥はその音ではっと我に返った。
しまった、と思ったがもう遅い。
――避けきれない。
遥は反射的にバットを振り切っていた。
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