●● 消えるマキュウ --- 二 ●●
「うひゃああっ!」
気味の悪い、こうもりが超音波を発したような声とともに、がしゃーんと何かのぶつかる派手な音がした。真っ白だった視覚がだんだん元に戻ってくる――とともに、とてつもなくおかしなことに気付いた。
さっきまでいたバッティングセンターではない。
薄暗い地下室のような実験室のような、じめじめした埃っぽい部屋。背後にずらずらと並んだ棚には、たった今手からすっぽ抜けたバットが突き刺さっていた。ばらばらと埃と何かの破片がこぼれている。
「……え?」
ここは一体どこなのだろう。
「うう……」
目の前の布っ切れがうめいた。その黒い布はもぞもぞとなまっちろい手足が生え、起き上がった。どうやらそれは人のようだ。すっぽりと大きな布で身を包んだ、まるでゲームに出てくる魔法使いのような人がお尻をさすっている。
遥はぽかんとした。
「なに……これ。りゅう? りゅうはどこ」
竜之介の姿どころか、さっきまでいたバッティングセンターも、ハトヤの屋上の生暖い風も、ここにはない。あるのはじめじめとしたかび臭いにおいと、薄暗い部屋。そして目の前にいる怪しげな男。
腰を打ったのか、しきりに腰のあたりをさすっているようだが、声をかけていいのか遥にはわからない。
げほげほ、と咳をして、その男はしゃべった。
「そんな者はおらん」
「へ?」
まさか、こちらの言葉に反応すると思わなかったので、遥は驚いてしまった。
黒いフードの奥から、かすかに口元がのぞく。
ひょっとしたら、この人、魔法使いなのかもしれない。
そんな馬鹿げた考えがちらりと頭をかすめて、そしてそれを慌てて否定した。
だって、テレビで見るような人はカッコつけてて、かっこいいセリフなんか言っちゃって、とにかくこんな変な人なんかいない。これじゃただの変質者だ。
思わず遥は身震いをした。
嫌だ。そんな可能性など考えたくない。きっと夢でも見ているんだろう。そう思い込みたかった。
「おじさ……ええと、あのう。りゅうはいないって、それじゃここはどこか知ってるの?」
その男はおじさんと呼ばれかかったことに露骨な不快感を表したが、すぐに笑顔に戻る。
「そりゃもちろん知っている。ここはワシの実験室じゃ」
「じゃあ、何で僕はここにいるの」
「もちろん、ワシがお前を呼んだからじゃ」
はあ、と遥は心の中で呟いた。男の言っていることはさっぱり要領を得ない。
つるりとした中性的な口元に笑みをたたえながら、男は遥へと一歩、踏み出した。じり、と近寄られて遥は後ろに下がろうとしたが、動かない。足だけでなく、体中がなまりになったように重い。まるで夢の中で、歩こうとしても歩こうとしても進まないような、気持ち悪い感覚だった。
体が見えないもので縛られている。
床を見ると、白いチョークのようなものでぐるぐると模様が描かれていた。まるで儀式だ。遥はぞっとした。
遥の中である疑惑が形を得て、どんどん膨らんでいく。
お母さんがニュースを見ながら、近頃は変な大人が多いから気をつけなさい、と言っていた。子供を連れまわして、あげく殺してしまうような大人がいるのだと。そういう人は最初は親切に近づいてくるんだ、と。遊びなんかじゃなくて、本気でこんな変な趣味に没頭している大人は、やっぱり危ない人のような気がする。
そうでなければ――本当の魔法使い。
じり、と足が床の模様を踏み消すように動いた。
「動くな!」
突如男は表情を変えて叫んだ。
「は、はいぃ」
男の頭からはらりとフードが落ちた。長い金髪と青い瞳があらわになる。
テレビで見るような綺麗な顔をした男の人だった。ビジュアル系とかのミュージシャンのようだ。しかしそのわりには着ているものはぼろぼろに汚れた黒い布っきれだし、何より、見た目にそぐわないしわがれた声と、落ち着きのない行動に遥は少し不安を覚えた。
「いいか、動くんじゃない。陣が消えてしまう」
陣?
遥の頭には疑問符が浮かんだが、必死に笑顔を作ってうなずいた。言っていることがよくわからないけど、怒っているときにはものをたずねない方がいいに決まってる。
遥は思った。もしこの男が本当に魔法使いだったとしても、いい魔法使いである保障はないのだ、と。この男が魔法使いであるにしろ、ないにしろ、変な人だ、というのはなんとなく見えてきていた。おとなしくしているに越したことはない。
「そう。いい子だ」
男が微笑む。その笑顔の裏側にあるものを見たような気がして、遥は顔を引きつらせた。
「ワシの名はジョルジュ。貴公の名を問う」
男は名乗った。ビジュアル系ではなく、外国の人だったのだ、と遥は一人で勝手に納得した。さっきから少し言葉が変だと思っていたが、これなら納得がいく。
しかし、さっきまでハトヤの屋上にいたはずなのに、どうしていきなりこんなところにいるのだろう。
「僕は遥。カタオカ・ハルカ」
「ハァルカ? ハァルカ」
彼は名前を繰り返した。噛み締めるように確かめながら。
そして男――ジョルジュは興味深そうに遥を観察していた。なめるように。食い入るように。その視線は、純粋な興味とは違う何かを含んでいる。そんな直感が遥を強ばらせる。
「ぼ、僕――帰らないと」
「帰る?」
「僕、りゅうと一緒にいたのに……きっと心配してる。ううん、りゅうだけじゃなくて、お父さんとお母さんも」
心配しているに決まっている。そう遥は決め付けた。何より、自分自身がこんな得体の知れない場所から逃げ出したくてたまらなかった。
ジョルジュはあっさりと言った。
「貴公は帰れんよ」
遥は呆然とした。
「……どうして」
「お主はワシが呼び出したからじゃ。これからお主はここで暮らす」
「……わからないよ」
まるで堂々巡りだ。
言葉を選ぶように、ゆっくりとジョルジュは言葉をつむいでいく。喜びを抑えきれないように、口元がほころんでいく。
「まあ、早い話が、お主はこれからワシの下僕ということじゃな」
さあっと、血の気が引いていく。
下僕だなんて、言われたことがない。しかも、子供のいじめレベルではない。れっきとした大人が本気で言っているのだ。青い瞳が狂気を帯びてこちらを見据えている。
「まあ、ワシの言うことを聞けば、帰してやらんこともないが。……おい、どうした」
嫌だ。帰りたい。
男の言葉などもはや聞いていなかった。遥は涙をぼろぼろとこぼしていた。
◆◆◆
遥は泣いていた。
遥は学校に行くのが嫌いだった。小さいころから、遥はかわいらしい顔立ちをしていたけれど、それが仇となったのか、いじめの標的となった。原因は今となってはわからない。ほんの些細なことだったと思う。
「なーきむーしけーむし、はーるかちゃん」
「女みたいな名前! 本当に女なんじゃねえの? チンコついてるか見てやろうぜ」
そう言われてズボンを下ろされそうになったこともある。遥は必死で逃げた。クラスの男子は面白半分で追いかけてくる。女子は好奇心旺盛な目で見ている。
「やめろよ!」
そこに割って入ったのが竜之介だった。逃げる遥の背と男子たちの間に立ちはだかり、男子の何人かは足を止めた。もちろん、それで止まらない子たちは遥を追いかけていたけれど。
「なんだよりゅう。お前、遥ちゃんの味方をするのか?」
「ちげーよそんなんじゃねーよ!」
「ひょっとして付き合ってんじゃね?」
「何言ってんだよ! だから、そんなんじゃないって!」
いっせいに、ひゅーひゅーとはやしたてる声がして、当の遥は戸惑った。新しいクラスになって、竜之介と出会ったばかりで全く話したこともなく。それなのに、この人はクラスの剣先をうまくまるめて、半分引き受けてしまったのだ。
「大丈夫?」
「う、うん」
悪意なきからかい。今となってはそう思えるのだけれど、そのときはいじめにしか感じなかった。そこから助けてもらった。とにかくお礼を言わなければ。
「あのっ。ありがとう」
「……何が?」
竜之介はぽかんとした顔をしていた。
「えっ。ええと……」
遥は絶句してしまう。竜之介は本気で心当たりがないようなそぶりで、首をひねりながら、しばらく考えた後に言った。
「……ま、いいか」
遥はそれから、竜之介と遊ぶようになった。野球の話で盛り上がったり、いつしか、昼休みや放課後に他の男子と野球をするくらいにまで、遥の世界は広がっていった。
相変わらず茶化されたけれど、彼がいれば、多少の嫌なことなんて我慢できた。
しかし、ここには竜之介はいない。気味の悪い、変な男が目の前にいるだけだ。
「な、なんじゃ。どうしたんじゃ」
遥は嗚咽する。六年生にもなって泣き虫なのは恥ずかしい。けれど、今はそれどころではなかった。変な男が現れて、いきなり下僕呼ばわり。もっと怖いのは、子供同士の遊びや冗談という話じゃなく、いい大人がどうやら本気で言っているらしいということだった。
こんな場所にはいたくない。一刻も早く、帰りたい。しかし。
「だって、かえれない、って、」
「ああ、今は帰れんよ。しかしな」
「やだ〜……かえるうううう……」
どうやら、帰れないのだ。
ひっく、ひっくと情けない声がのどからもれてくる。
ジョルジュは困った様子でおろおろしている。
「どうしろというんじゃ……おい! モモ! モモはおらぬか」
しばらくして、足音もなにもなく、いきなり扉ががちゃり、と開いた。
そこにいたのは人間ではない。人形だ。白とピンクを基調にした、フランス人形のようなふりふりの服を着て、その小さな体が、ふわりと空を飛んだ。
遥はびっくりして泣くのを止めた。
「モモ! なんとかするんじゃ! そう、なんとか泣き止ませるんじゃ! ……え? ラングを呼びに行く? いかん! それだけはいかんと言うておるに! 待つんじゃ!」
人形のモモはきーきーうなる。よくわからないけれど、何か言い争いをしているようだった。それは遥の知らない言葉だった。
人形はふわりふわりとジョルジュの手を避けるように飛ぶ。
「うるさい! 黙れ! ワシの言うことを聞け!」
よく聴くと、ジョルジュの言葉もそれと似ている。なのに、ジョルジュの言葉は理解できる。遥は自分がおかしくなったのかと思った。
人形はしばらくきーきーとジョルジュの頭上で叫んだのち、まるであかんべーをするように、ふわりと舞い、去っていった。
遥は呆然とそれを見送った。顔がぐずぐずにぬれているけれど、涙はすっかり止まってしまった。
「あのガラクタめ! 勝手なことをしおって……」
ジョルジュはぶるぶると怒りをあらわにしている。
今のは、何だったんだろう。
ぶるっと身震いして目の前の男を見る。ああ、この人は本当に魔法使いなのかもしれない。その考えが確信を得て、どんどん膨らんでいく。
「おお、泣き止んだか。無理もなかろう……お主が知らない世界に呼ばれたとあってはな」
「え……」
あっけなく自分の考えていた事を肯定されてしまい、遥は言葉を失う。
「本当?」
「ああ、本当じゃ。しかし何も心配することはない。ワシがついている限りはの」
ジョルジュは、じり、じり、と歩みを進めた。遥はつられるように、後退する。先ほどのような体中の重い感覚は、すでになくなっていた。
ジョルジュはぴたりと足を止めた。
「ハァルカ? お主……」
「へ?」
ジョルジュは何か言いたげに足元を凝視した。つられて床を見る。
白い模様が、涙で乱れている。
さあっと表情が変わったのを、遥は見逃さなかった。
まずい、と直感的に思った。この人にとっては大切なものに違いない。
「何ということを! 結界が壊れてしまったではないか!」
「ごっごめんなさいっ!」
遥は駆け出した。ジョルジュの伸ばした手をくぐり抜けて、扉の前にたどり着く。
焦っているせいか、ノブががちゃがちゃいうだけで開かない。
「何をしているのだ」
後ろからジョルジュが迫ってくる。悪夢だ。
夢の中だと逃げられない。いつも追いつかれてしまう。
けれど、これは夢じゃない。逃げられるはずだ。
遥は気づいた。夢の中なら捕まえられても、夢ですむのだ。これは現実だ。むしろ現実のほうが、何がおこるかわからない。
嫌だ。嫌だ。どうして、どうして開かないの。
助けて! お父さん、お母さん! 助けて!
「逃げられはしない。おとなしくするんじゃ」
迫り来る声が、まるで死刑宣告のようだった。
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