●● 消えるマキュウ --- 七 ●●
「帰る?」
その闘志にひやりとした声が、水を差した。
彼女は白い人形のような顔を向けて、マウンドに歩いてくる。
「ハルカ、帰っちゃうんだ。これに勝ったら、帰っちゃうんだね」
ポーラの恨めしそうな言葉に、遥はうろたえた。
ラングは焦った。せっかく遥がやる気になったのに、これでは水の泡だ。なんとかポーラを黙らせないと。しかし、そんな方法なんて思いつかない。
「ご、ごめん」
「帰っちゃうんだ……」
こうしている間に、彼女はどんどん士気を下げている。
ラングが動けないでいる間に、ジョルジュが彼女の襟をつかんだ。
「ポーラ! こっちゃ来い!」
ジョルジュはそう言うと、一塁のそばまで引っ張っていく。ポーラは抵抗しながら、その間も恨み節は続いていた。
「はなしてよ! 触らないで! ……ハルカ、ポーラとやくそくしたのに! したよね! でも帰っちゃうなんて、そんなのないよ!」
遥の瞳が揺らぐ。
「ハルカ……」
声をかけるが、その後が思いつかない。なぐさめようにも、発破をかけようにも。どうしたらいいのかわからない。
遥はじっとポーラの顔を見ていた。そしてそっとつぶやく。
「……うん。でも、ごめん」
その言葉は、ポーラには届いていない。けれど、ラングにはそれで充分だった。彼の決意が揺らいでいないことが、わかったからだ。彼を見くびっていたのは、ラングだったのかもしれない。
遥はそうつぶやくと、ラングを正面から見た。
「迷惑かけてごめんなさい。……もうこれ以上、点は取られたくない。勝ちたい」
「おう」
遥の笑顔が見れて、ラングはようやくほっとした。ぽんぽんと遥の頭を叩く。
ジョルジュはポーラと話し込んでいた。何を吹き込んでいるのかと不安になったが、ポーラがおとなしくなったので、まあいいかと思いながらタイム終了を伝えた。
◆◆◆
ようやく、試合再開とあいまった。
遥はマウンドに立ち、呼吸を落ち着ける。何も考えない。考えたら負けだ。そしてバッターボックスを見つめる。たった十数メートルの距離が、遠い。
遥にはわからなかった。ジョルジュと話し込んで、その後やけに張り切って一塁に立ったポーラが、逆に不安の材料になっていた。いったい、何を言われたんだろう。
ふうっと息を吐き、気合いの投球。
その時だった。
きいいいいんいいいいいいいんいいいいいいいいいん――
耳をつんざくような高周波が、遥の脳を揺さぶった。
耳をふさぎ、しゃがみこむ。景色がゆがんで見える。しかし、その音は直接脳を揺さぶるように届く。耳をふさいでも全く効果はなかった。
遥はしゃがみこむ。
異変が起こったのは遥だけではないようだった。相手チームの男たちが頭を抱え、耳を押さえ、苦しみもがいている。
ラングが駆け寄ってくる。
口がぱくぱくと、何かを訴えている。
遥にはそれがわからない。耳が痛い。頭が痛い。耳が――
視界がゆがみ、目をつぶる。その手を乱暴に取り払われ、ヘルメットを外され、耳飾を引きちぎるようにむしり取られた。――いいいん、と余韻を残して音は離れ、ウソのように静けさを取り戻した。
気がついたらラングの腕の中にすっぽりと納まっていた。遥は慌ててその腕を押しのけ、立ち上がる。顔から火が出そうだ。
「だ、大丈夫」
「――――?」
「え?」
言葉がわからない。
ラングが渋い顔をしている。
彼はジェスチャーを始める。耳飾を耳に寄せる。苦悶の表情を浮かべて、耳をふさぐ真似をして離す。
「――ああ」
そうか。
きんきんするこの音は、耳飾からいきなり出たのか。でも、どうして?
しかしそれを尋ねようにも、今の遥にはなす術がなかった。言葉はもちろん、文字もわからない。会話の方法は、簡単なジェスチャーのみ。
相手チームの男たちもようやく事態に気づいたのか、やや紫がかった赤色の石を次々と投げ捨て、混乱が収まっていく。魔王――ジョルジュの弟が怒り狂っている。
今まで、どれくらいこの耳飾に助けられていたのか、遥はようやく思い知った。それとともに、今は言葉がわからなくてよかった、と少し思った。魔王の怖い言葉なんて、聞きたくはなかった。正体が割れた今も、やっぱり彼は遥にとって魔王なのだ。
改めてマウンドに立つと、審判くんが不思議な言葉で試合再開を告げたようだった。そりゃそうだ。作ったのはルルベールなのだし、なじみのある野球用語でも、遥のしゃべっている言葉ではない。
シャーロワに来たときと同じような、別世界に放り出されたような不安をまた再び味わうことがあるなんて、思いもしなかった。周りにいるのは知っている人たちのはずなのに。一人ぼっちだ。
こんなんで戦えるのか。
ジョルジュの声が飛んでくるが、やっぱりわからない。彼の声はともかく、ラングの言葉がわからないのはすごく不安だった。
その不安をよそに、ラングはさっきまでと同じように座り、ミットを構えた。
真剣な目が、こっちを見ている。
投げるしか、ないんだ。
遥は大きく息を吸った。
その後は、覚醒したような怒涛の投球だった。
まず一人をセンターフライで打ち取り、その間にランナーは進塁。ワンナウト三塁。
その次は幸運なことに、ピッチャー返し。おかげでランナーは塁から離れられなかった。
バッターボックスに入ったのは、最後の一人。遥はそうありたいと願った。ここで終わらせてしまいたい。この回を越えてしまうと、持ちこたえられるかわからなかった。
不安材料といったら、ラングだった。彼は度重なる火球を受けてぼろぼろになっていた。すでに自力で姿勢を保つこともできない。審判くんに寄りかかりながらも、必死で受けている。
左側にいるはずのポーラも気がかりだった。静かになったけれど、ジョルジュに何を言われたのだろう。
でも、ここで手を休めちゃいけない。これまでの経験からそう学んでいた。ここでうっかり気を抜いたら、さっきの二の舞だ。考えちゃいけない。今は、自分ができることだけをやる。
ラングの真剣な目と、視線がぶつかる。言葉はわからないけれど、通じ合っているような気がした。
「いっけええええ!」
空気を切り裂く音とともに、赤い火の玉が、華麗に相手のスイングをかわした。
審判くんが長々とカウントする。「すとらいくー、あうとー、ちぇんじ」だ。あとは逆転するだけ。と簡単に言うけれど、三点差がとてつもなく遠いように思えた。
審判くんのカウントとほぼ同時に、ラングがずるりと座り込んだ。
「ラングさん! 大丈夫!?」
遥はホームまで走る。
打ち取りたい、という遥の気持ちはこの上になく投球に表れた。しかしそのせいで、加減をすっかり忘れてしまったのだ。ラングがぐったりしている。動かない。何もかも自分のせいだ。
彼はもうぼろぼろだった。審判くんに寄りかかりながら、目を閉じ、肩で呼吸をしている。
「ラングさんラングさんラングさん!!」
彼に一瞬触れるのをためらい、そして思い切って揺さぶった。それに応えて、うっすらと、ラングの目が開く。けれど、立ち上がる気力はないようだった。
「ラングさん、チェンジだよ。立てる?」
言葉が届かないとわかっていても。ごめんなさいは言わないと決めた。
彼は曖昧にうなずいたように見えた。ひょっとしたら、ただのひと呼吸の動きだったのかもしれない。
手を握り、引っ張る。ラングの腕はだらりと力なく下がったまま。遥の力では持ち上がらない。
地をふるわせるような低い声がした。振り向くと、そこにアグニがいた。
遥では持ち上がらなかったラングを、彼は軽々と持ち上げ、乱暴に担ぎ上げた。ラングがぶつくさと文句を言ったように聞こえたけれど、むしろいつもの様子が戻ってきたことに遥はほっとしたのだった。
「あ、ありがとう」
アグニは短く吠えた。まるで獣のようだと、遥は思った。
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